12月にあの世界を見せられてから、霊のサブスタンスがリアルに分かる。「分かる」というのは聖書の解釈でも御言葉の解き明かしでもない。目の前にあるこのPCがリアルであるように、それはリアルなのだ。パウロはこう言っている:
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。-2Cor 4:18
はあ?見えないものに目を留める?英語ではlook at、ギリシャ語ではskopeo。つまりscope(スコープ)の語源。パウロにとってはその世界は文字通り見えていたのだ。彼は14年前に第三の天に挙げられて、人が語ることの許されていない言葉(レーマ)を聞いたと証言している(2Cor 12:1-4)。それ以上は何も語らない。彼はそこで何かを見たのだが、公に語ることはあえてしていない。
世界の動きも、この霊的領域におけるサブスタンスの現れである。私たちはこの物理的時空間の中の現象や物や人を取り扱っても無意味。私たちのバトルは血肉対象ではなく、霊的世界に対するもの(Eph 6:12)。だから油まきはナンセンス。神社仏閣を破壊しても意味がない。
個人レベルではマインドが戦場。マインドは霊と魂の接点。敵が直接アクセスする。私たちのマインドに去来する個々の想いはどこから?それは空中の権を持つ者からくる(Eph 2:2)。これを自分由来だと錯覚していると、欺かれて自責の念、あるいは逆にプライドなどに駆られる。ルーツはサタン、彼の投げる火の矢なのだ(Eph 6:16)。その矢(想い)が去来する瞬間を捉えて、信仰の盾を取り、イエスの名と御言葉によって拒絶し、火を消すこと。一旦それが私たちのマインドの深くにまで刺さると処理が困難になる。もろもろの感情を惹起し、思いはぐるぐると巡り、神の声は消され、御霊の導きも見失う。
注意すべきは、しばしば自分の得意とする領域では敵の放つ火の矢を得意げに弄んでしまうのだ。私もこのトリックに長年引っかかっていた。科学的な知識や世界観が信仰を無効にしていた。だから癒しが現れなかった。それぞれ自分の"専門領域"には十分に注意が要る。そこでサタンの想いを飼い育てており、しかも自慢気にそれを披露しているのだ。それが要塞。一見、人の目には良いもののように見える。だから長期にわたり、対処できないままに置かれる。人の罪は悪を知ったことではない。善と悪を知ったことなのだ。この善が曲者。サタンはこれをフルに利用する。
終わりの時代、敵の策略は欺き。私たちはこの物理的時空間でライオンに喰われることはないだろう。しかしフェイクの罠、あるいはヴァーチャルの世界に落ちる罠はあちこちにかけられている。マインドをウォッチすること。これが生き延びる鍵である。
わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り、神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ-2Cor 10:4-5
追記:こちらを再録しておこう。
-「天にある自分の園を手入れすると地上で何が起きるのか」 Dennis Walker-Tending Your Garden in Heaven
これもグッド。
-「自分が何者か知って誘惑に打ち勝つ」Jonathan Welton "Purity"