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トップ > 2009年07月27日

哀愁のカサブランカ

郷ひろみ、綾戸智絵の伴奏でなかなかアダルトな雰囲気です。私のカラオケの定番ですが、こういうアレンジもあるわけだ。

十字架-交換の場-

先の記事で"自分の十字架"は自分で問うて下さいな、とお答えしましたが、昨日のメッセージで軽く原則を語っておきました。すなわち十字架は交換の場なのです。私(セルフ)とキリストが交換される場。

喩えると-
自分でお手伝いをして稼いだ10円玉を5個握り締めている子供に対して、父親が「○○ちゃん、それをパパに下さいな」と求めます。子供はどう反応するでしょうか?自分の達成である10円玉に愛着を置くか、パパの求めに答えるか、これはすべてパパとの関係がいかなるものかによるのです。

一方のパパもこの質問をするとき、内心ハラハラかもしれません。だって、自分に対するその子の心が分かってしまうのですから。しかもパパは実はその心の中に500円玉1個を代わりに与える用意があるのです。

これがなかなかできないわけで。もし、しぶしぶながら子供が10円玉を明け渡すことができたとします。パパはやや悲しいかもしれません。しかも、もしかするとその子は代わりの硬貨が1個に減ってしまったことに失望するかも知れません。これが私たちの様です。

救世軍山谷少佐のメッセージもちょうどこれと同じ内容です。ぜひご参照ください。外なる人と内なる人の交換の場が十字架であることが分かります。10円玉5個、すなわち自己(セルフ)を失う者は幸いです。それは500円玉1個、すなわち内なるキリストを得ること、そのとき私たちはその方の信仰にあって生きる者とされるのです。

我はキリストと同(とも)に十字架につけられたり。されど生く、尚お我にあらず、キリスト我にありて生き給うなり。されどわれ今肉にありて生くるは、我を愛し給い、且つ我がために己自らを付(わた)し給いし神の子の信仰に在りて生くるなり。(永井訳)(注)

注:ガラテヤ2:20は実に訳しにくい節です。たとえばヤングの直訳でも

with Christ I have been crucified, and live no more do I, and Christ doth live in me; and that which I now live in the flesh--in the faith I live of the Son of God, who did love me and did give himself for me;

となります。この信仰は、キリストに対する私の信仰なのか、キリストの信仰なのか。私は永井訳とヤング訳を好みます。それは「私は信仰にあって、すなわち私が生きる御子の信仰」と理解しています。自分で振り絞るのではありません。御子の信仰が私の生きることを可能にする術、あるいは領域であるわけです。ポイントは、私は十字架につけられ、キリストが生きるのですが、同時に私もその御子の信仰にあって生きているのです!このとき、諸々の状況においてかつてのような認知行動パターンをしなくなります。再条件付けがなされるのです。これが私たちの内面の変化、まあ、聖化とも言えるでしょう(しかし体が旧い以上、大脳辺縁系の影響は免れません)。

ウォッチマン・ニーがこのような喩えをしています。それはあたかも椅子に座りながら移動するようなものだ、と。動くのは椅子、すなわち私たちの居場所であり、生きる原動力であるキリスト。その中に座り、身を任せたまま、私たちも生きているのです。何と楽なことでしょうか。クリスチャンの歩みはまず座ることから始ります(これは私のバイブルカレッジの「霊的成長コース」で扱っています)。ここに生きるエネルギーの交換があるのです。

ビョウキは病気

うーーン、今朝も「ばっかやろー」でした。

さて、リチャードさんとヴィオロンさんがそれぞれBlogで触れているので、ちょっとご報告を。昨日のセレブの後、前にも書いた"声"を聴くおばちゃんがまた発作を起こした。このところしばらく姿を見せていなかったのだが、また戻ってきた。

で、昨日はこうだ。私のところにネチネチっと絡んで来て、「私は神様の声を聴いて、もう一生来ないと思っていたけど、導きに従ってまた来ましたっ。今すぐピアノを出して下さいっ(片付けてあるのだ)。私は神様の声に従いたいだけなのです。なのにルークさんは邪魔する。なぜダメなんですか!神様がピアノを弾きなさいと言われるから、私は嫌なんだけど、私は従いたいのです。皆さんも私が神様の声に従うことをなぜ認めてくれないんですか!ピアノを弾かせて下さい!」と言うわけ。こういう発作を起こす場合、独特の目つきに変わるので、ヤバイと分かるのだが、とにかく何か因縁をつけて絡んでくるわけ。かくして皆さんの前でひとしきり"大演説"をぶったのだ。

私の判断はこうです:神の"声"を聞いて、その妄想確信は揺ぎ無いレベルに達しています。すでに理屈や説得の通る世界ではありません。私たちの常識の通じない世界の住人であることを知る必要があります。また自分を受け入れる人を選んで付け込むことが巧みです。病んだ自己を私たちに認めさせ、受け入れさせたいのです。聖霊派ならば「悪霊よ、出ろ~!」とかやるのでしょうが、これは人格の病です。私的には今後セレブ自体を妨害する行為をした場合は、「礼拝妨害罪」として警察を介し、精神保健福祉法に従って、措置入院策を取る腹を決めています。

まあ、これに対してはいろいろな反応が出ることも承知です。いわく、冷たい、愛がない、あたたかく受け入れてあげるべきだ、・・・等々。しかし専門的見地から言えば、兄弟姉妹にもご理解いただきたいことは、病気の人は病気であること。集会は何でも許してご機嫌取りの「よしよし」をする幼稚園でもなければ、精神科病棟でもないのです。病気の人はしかるべき場でのしかるべき処置が必要であることを認識してください。そして何より素人が病気に対応する場合、ある種の危険性があり、すでにそれが高まってきているからです。消火器の増設も考えています。癌の患者さんを素人が処置することはできません。精神の病もそれと同じなのです。

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