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Category: 日記

美しい・・・

 
 

初めて見る光景

ゲラの校正が終了。いよいよ印刷に入る。9月中に刷り上がる予定。

で、本日の光景。雨はざんざん降りなのに・・・でも、美しい・・・

この国のゆくへ(2)

どうみても、おかしくなってきている。この国のゆくへ・・・。

-原発再稼働の布石?文科省が進める“放射能安全洗脳教育”

-原発再稼働…「巨大カルデラ噴火リスク」に対する九電の主張

-MEGA地震予測創設以来初 南関東警戒レベルを最大に引き上げ

この3日間ほど、田舎に戻ってきた。温泉・・・ではなく、家の片付けだ。今や空家となっているわけで、不要なモノを捨てたり(これがすごい・・・)、屋根のペンキを塗ったりと・・・。いや、一応ボディは鍛えているつもりだが、マシンによると使う筋肉と動きが固定化しているのだ。よって実戦するとあちこちが張ったり、傷んだりと・・・。ふうcry

高校まで育ったこの地、戻るたびにシャッター街化している。生まれは東京なので、とにかく東京に戻ることだけを考えていた。言葉の違いを指摘されて、あ、自分は外部者なのだと意識した中学時代。確かに居場所がなかった。

しかし、小学生の頃は、21世紀になれば空を飛ぶ自動車が出現していると夢をみたものだが、この町はほとんど変わっていない。否、衰退の一途だ。人口減が激しく、まもなく2万を割りそうな気配。空家もあちこちに。思えば、遠くへ・・・だ。

 

父を味わう

神は霊、ゆえに偏在される。どこに行こうとも私たちは神の霊から逃れることはできない。

どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。
天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも。見よ、あなたはそこにいます。
曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうともあなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる。-Ps 139:7-10

この神を父として味わうことが出来る特権(John 1:12)。父を感じる・・・言葉がない・・・。

 

Cool Down

ほぼゲラの校正に没入。頭がキンキンに加熱している。ただでさえ暑いのに・・・。

こんなときはプールだ。30分ほど泳ぎ、サウナ。その後、水風呂。この落差が実にカイカンだlaughing

 

生と死の狭間

昨日、親戚筋の葬儀があった。今年に入って二件目。家族葬だったが、人形作家の与勇輝氏も来てくださった。仏教式で延々とお経が響く中、改めて生と死の狭間を考えたところだ。数日前までは意識朦朧としつつも生きていた。が、今や蝋人形のように横たわっている。この境目って、どこにあるのだろうか?

元々肉体は物質に過ぎない。が、この物質を用いて「私」が生きている。神の意志を表現するのもこの物質。霊と物質の間に魂が介在し、霊の感覚を言語化し、それを表現する。大脳は特に魂とシンクロして機能する。大脳のどこに、どのようにして「私」が存在しているのか。ペンローズなどはニューロンの中の微小管における量子力学的現象としている。すると自由意思なども量子力学的ゆらぎによることになる。つまり偶然的なもの。

現在、カオスの理論によると偶然と必然を区別することはできないのだ。これは前に再建主義者との対話でも指摘した。いわゆるカルバン主義とアルミニウス主義の対立がナンセンスであると。極私的には、魂あるいは意識の問題は物理的時空間の現象としては解明されないと確信している。それは霊的領域と物理的時空間の狭間に存在するからだ。サイエンスは未だに五感によって把握される世界のモデル構築に過ぎない。神や霊の存在を否定も肯定もしていない。意識はようやくサイエンスの対象となり始めた。が、サイエンスが五感を頼りとする限り意識を意識が理解することはできないだろう。鍵はやはり聖書にあるのだ。

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる魂となった。-Gen 2:7

この命は複数形。つまり土から肉体を粘土をこねるように構成し、命の息(neshâmâh:霊)を吹き込むと、肉体と霊との相互作用により魂が生じたのだ。魂は霊と物質の狭間に生きている、特にマインドは霊と物理的時空間の接点だ。結局、人は体の命(bios)、魂の命(nephesh)、霊の命(neshâmâh)を持つ存在とされた。私はこの霊と魂は「場」を構成していると考えている。素粒子もそれぞれの「場」の振動あるいは波動として定義されるが、霊と魂も「場」を有していて、その波動がわれわれの実際的に経験する霊と魂の現象であろうと。これがいわゆるオーラを発する源だ。イエスもしばしば霊によって人々のマインドを読み取った。「場」が見えるのである。霊の見極めの賜物も同じ。

特に霊の「場」の事象を把握して言葉(レーマ)として発する時、その「場」はこの物理的時空間に実体化される。これはニューエイジも「思考物質化の法則」として知っている。繰り返すがヘブル11章の信仰には定冠詞がなく、その定義はクリスチャン信仰だけではなく、一般的な法則なのだ。われわれは十字架の贖いの上にあって聖霊の導きにより信仰を使う。正確には信仰の法則と言ったほうが良いかもしれない(Rom 3:27)。このコツが開かれると、いずれ死者も生きることを見るであろう。なぜ?イエスがそう命じられたからだ。

病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。-Matt 10:8

これは十二弟子限定というむきがあるが、マタイの最後にはこうある:

イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」-Matt 28:18-20

ここの「守る」も日本語で理解してはならない。いわゆる校則を守るとか、道路標識を守るの意味だけではない。Strongによれば、逃れることがないように見張ること、とある。つまりイエスの命じたことをすべて取りこぼすなという意味なのだ。Are U with me? われわれのマインドがトランスフォーメーションされて、イエスのマインドが完全に私の魂の「場」に現れるようになれば、死者は生き返る。いわゆるキリスト教が絶滅危惧種となりつつあるのは、デュナミスの現れが欠如しているからだ。改めて

神の国は言葉(ロゴス)にではなく、力(デュナミス)のうちにある。-1Cor 4:20

 

一息・・・・

編集者とのやりとりの中でようやく本の最終原稿ができあがった。当初よりかなり加筆修正している。信仰の有無によらず、自分的にもけっこう面白いものになったと思っている。とにかく世の人が生の聖書の言葉に触れて欲しい。いわゆるキリスト教神学などで汚染されていない生のみ言葉を。この意味で未信者に対して直球勝負をかけている。ページ数にして290ページほど。ハードカバーになるのでけっこうしっかりした作品となりそうだ。

ふーっ。それにしてもちょっと疲れた。これから温泉で抜いてこよう・・・・innocent

 

レーマの結晶

 
 
 
 
 
 

 

光が美しい季節だ。緑も紫陽花も鮮やか。この世界は神のレーマがフレーム化されたもの(Heb 11:3)。かつての私は単に自然を、つまりナチュラルな世界を楽しむだけだった。もちろんその美しさは神性の反映であると理解していた(Rom 1:20)。が、今はもっと進んだ。これは神のレーマがナチュラル世界に結晶化したものであると。frameという単語は日本語では馴染みが薄いので、結晶化というとわかりやすいかもしれない。

メッセでも語ったが、聖書は日本語のオツムで読んではならない。もっと言えば、この物理時空間のオツムで読んではならない。イエスもそのオツムで理解してはならない、元々イエスはわれわれの常識を超えた人なのだ。ちょうど江戸時代の末期に黒船が来たとき、彼らの言葉や習慣や価値観などは日本人にはまったく理解できなかった。プロトコルが根底から異なるのだ。日本的対応をしてアメリカをイラつかせた。だから黒船は大砲を打つぞと威嚇するしか、幕府を動かす方法がなかったのだ。

これと同じ。天の国がこの地に入り込んでいる。それはカルチャーショックを引き起こすべき事態なのだ。ところが聖書を自分の感性や常識の範囲内で読もうとする。そして勝手なイエス像を作り上げる。神の賜物や現れに関して、自分のキャパで受け止められる事だけを選択する。そして自分は聖書を知っていると思っている。ちょうど富士山頂を見てもないのに、富士山のガイドブックを知っていると公言するようなものだ。笑い話。実はこれがかつての私だったのだ。

正確に言えば、自分の経験の範囲で帰納的(具体例から一般化へ)に知っていた。が、今回は天下りに"丸ごと"知らされたのだ。それは天からの光で"盲目"にされる経験でもある。それまでのパラダイムが粉砕されるからだ。 見ることと理解することは全く違う。同じような事を語っていても、現地を見た人が語るのとガイドブックの理解を語るのではまったく違う。それが分かってしまう。言葉を弄しているだけだと。これは実に残念であり、さみしいことなのだ。パウロが自分の見たことを一部だけしか語らない理由はここにもある。

編集者の弁

今回の出版の打ち合わせで都内の出版社に出向く。編集者が付いて下さり、細かい部分を手直ししてくださるのだ。その彼の弁。

人間がどこから来て、何処へ行くのか、確かにこれは人生の根本問題。誰かが造ったか、偶然に進化したのか。偶然に進化したとしても、なぜ自然がそのような進化を誘導する力を持っているのかは誰も答えていない。結局NHKあたりの特集を観ても、自然はすばらしいで終わって、根本的な疑問には何も答えていない。この本はそんな疑問を持っている人にはかなりクルと思う・・・。信仰のメカニズムがなるほどど納得できた。結局、聖書って何を語っているのか、これがつかめた、云々・・・。

若い彼も世界がなぜ存在するのか、いわゆる哲学・思想や科学は何も答えていないことに気がついた、と。創造主が造ったか、偶然にできたか、これは選択の問題、つまりは信仰の問題だとわかったと。うーん、狙ったところをキチンと受けてくれている。いろいろと仕掛けもしているのだが、これもキッチリと楽しんでくれたようだ。やはりプロはプロだ。こちらの意図をすべて見抜いている。ぐいぐい引き込まれて、かなりハマるとの感想で、特に40代くらいの読者層にはフィットするかもとのことだ。本を作る過程はなかなか楽しいものだ笑顔

追記:本日の癒しの証

前に正月から1月下旬まで右足が麻痺していたことを書いた。この癒しもMRI写真を提示してここで証した。ところがその間に右足をかばうために左足に負荷がかかり、膝を痛めてしまったのだ。というか、左の膝は以前筋トレで痛めて、サポーターで保護していたのだ。それが悪化したわけ。本日も階段を下る時にはかなり痛みが走り、いよいよコンドロイチンかよ、とあのCMのおばさんやおじさんの光景を思い浮かべていた。情けない・・・。

帰宅して、何気に手を置けとの声があったので、左手を添えて、天の癒しのサブスタンスを思っているうちに、またも左足がビクン、ビクンと動き出した。2分くらいだろうか、その後落ち着いたので、立ってみると、なんと痛みがまったく消失。左足だけでケンケンをするが、なんともない!はあ?といった感じで、キレイに痛みが失せた。自分に癒しを適用するときには大胆さがあるためだろうか?とにかくキレイに癒しが起きるのだ。

 

朝のひととき

緑の光り輝く公園を走っていると、同じマンションに住む尺八アーチスト、ブルース・ヒューバナーさんが尺八の練習をしていた。ここでも前に紹介したが、『ぶらりひとり旅』に出られたことがあるので、「たしか、テレビに出られましたよね」と声をかけて、しばしの会話を楽しむ。CA出身で、83年より日本に居住。わがマンションには95年くらいからとか。月に一回のペースでライブを、最近では飛鳥IIの船上ライブをインドまで行って好評だったと。近々では横浜ドルフィンにて。モーションブルーなどにも出るらしい。オフィチャルサイトはこちらだが、今はアクセスできない状況。

-Bruce Huebner - ブルース・ヒューバナー Official Website

紹介文はこちらに・・・

-ブルース・ヒューバナーとカーティス・パターソン

尺八はJAZZとの相性もよいとのことだ。

それにしてもこのマンション、89年3月からだから思えば遠くへだ。抵当権抹消手続きで当時の書類を見ると、4,260万の借入条件が、なんと金利5.7%!しかも3年後のバブル絶頂期には7.7%!!!当時は毎月30万近く(後にサンディエゴのオフィスビルの分10万がプラスされた)を返済したが、元金は一向に減らず、むしろ未払金利が80万近くつもる有様。ほとんどサラ金地獄並だった。あの当時は教会事にはうんざりして、トーラスを乗りまわしたり、とにかく遊びつつ、ひたすら物欲で生きていたから、やってこられたのだ。それでも主はイザヤ41章をもって約束してくださった。まことに主は真実なお方。

すべてはこの番組から始まった・・・(またかよ、とは言わないで・・・汗。ダイヤル回して・・・がもう通じない)。今や、娘夫婦が同じ区内に5千万の新築マンションを購入(私のよりはるかに高級)。私の役目ももう終わりなのだ・・・ぼそ。

バブルの象徴であったこの街も、今は老人たちの街になってしまったようだ・・・。

葬儀の日

本日は葬儀。大学夜間部から某大学教授まで叩き上げた彼の人生を偲びつつ、40年近くの彼との関わりを想い出していた。

 

地上を去る日

38年来の友人がおととい亡くなった。ある大学の教授を定年退職し、悠々自適の生活のはずだった。肺炎から敗血症になり、あっけなく往った。12月の上旬にたまたま御茶ノ水で会っていろいろ話をしたところだった。脊柱管狭窄症と頚椎捻挫で痛みを訴えていた。食事が摂れなくなり、体力が落ちているところに、病院にリハビリ通いをして菌を拾ってしまったのだ、とわが友人の医師の診たて。享年75歳。

昨日のバニヤンは60歳で逝った。人生、それほど地上にてゆったりしている時間はないかもしれない、と最近とみに感じている。社会的にすべき義務と責任は果たしてしまった今、これから残された時間を何に捧げるか、これはかなり大きな課題である。もちろん回答はすでに出ているのだが・・・。パウロのように自分は走るべき行程を走りつくし、あとは義の冠が待っているだけだ、と悠々たる凱旋ができることを願いつつ。

 

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