- 2025-06-14
iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ
カテゴリー: 映画

FBよりの転載
昨日、日本基督教団の齋藤篤牧師の次のポストに突っ込みを入れたところ、私の詰めがツボをついたのでしょうか、コメがすべて削除されました。そこでちょっと記録を残しておきます。

コメのやりとりの要旨は-
「思う」だけなら、CTもエホバもOKになるし、CT裁判で「思うこと」を陳述書として出しても裁判所からは無視でしょうと。
「思うのは自由、害悪を流すのが問題だ」と言うので、日本基督教団の過去スキャンダルを指摘したら、「総合的ファクト」ではないと、ではそれを教授してくれと言ったら、やだよと。
まあ、「総合的ファクト」はCTもエホバも言うわけでして。で、この牧師は聖路加病院性加害事件の二次加害者として提訴されているので、和解をお勧めしようとしたらばっさり。CTのネクストターゲットはあなたかもと言ったのが効いてしまったかな[1] … Continue reading。
この人は分かっているのですよ、心のなかではね。が、認知的不協和の葛藤をしているわけ。だから自我分裂症候群を呈するのだよ。しんどいと思う。
巧みに僕の詰めをかわそうとしてますが、ついに耐えきれなくなったのでしょう。プロテスタントのルター自身が分裂人格だったと指摘してますが、もろその病理を受け継いでいるわけ。
かくしていかにも日本基督教団の牧師のありさまを証明してくれました。
歴史を振り返ると、対照的に、当時このような人々もいたのだ。
まず橋田無適(邦彦)、東大生理学教授、電気生理学の創始者、医学博士であると同時に、禅にも親しみ、特に道元の『正法眼蔵』の研究でも有名だった。

近衛内閣で文部大臣となり、昭和20年9月14日、戦争犯罪の容疑で出頭を求められ、特別高等警察主任が迎えに来たところで服毒自殺した。享年64。 死去にあたり昭和天皇から祭資並びに幣帛が下賜された(@WIKI)。
彼は真っ赤ウソーの欺瞞により裁かれることを拒否したのだ。
そした彼もまた漢詩をよく詠んだ。そのひとつ-
白雲満雲山
山雲人未皈
拄杖莫敲門
恐驚白雲飛
(五絶、平声微韻)
白雲、空山に満つ
山空くして、人未だ皈らず
杖を拄きて門を敲くもの莫なし
恐れ驚どろき白雲飛とぶ
当時、内村鑑三もいた。彼もキリスト教会の腐敗を徹底的に指弾し、不敬事件で社会的に抹殺された[2] … Continue reading。一方の日本基督教団はイケシャーシャーと世に迎合し、主イエスを捨てた。
そして敗戦、左巻き集団GHQの真っ赤ウソーは日本の精神性を徹底的に破壊した。その中で左傾化の欺瞞により生き延びた日本基督教団、卑しさの極みである。そしてそれと合わせ鏡の現ニッポン、キーワードはやはり卑しさ。その象徴が日本基督教団信徒の石破かゲル。
今回、映画『教皇選挙』でバチカンが見事に嘲られたが、この教団は嘲るまでもなく、すでに始まりから腐敗している。故鹿嶋春平太氏の「ニッポンキリスト教は当初から闇の中だ」はまことに鋭い指摘だ。

そして戦後、軍人として身体虚弱ゆえ日本のために戦うことが許されなかった三島由紀夫。それをずっと負い目に感じていた。彼は「己のためにだけ生きるのは卑しい」と言い、また「自分はこれまで生きていたとは言えない」と内面の虚無感を告白した。その心の空白を埋めるために自衛隊に入り、ボディビルで鍛え、武の道を志した。が、脳内空転してしまった。究極のナルチシズムとして自ら美しき死を望んだが、それはグロに終わった。ちなみにパスカルは、人はJESUSのみによって埋め得る空洞を内に持つと言った。
その後、ニッポンは経済成長を遂げ、ジャパン・アズ・No1と賞されるも、バブル崩壊で今日まで失われた10年、20年、そして30年を経てきているのだ。三島が天皇に求めた大義を喪失し、クラゲのごとく背骨を失い、ふわふわと漂うだけの存在、アメリカに飼育され、搾取され、国民は貧困化、まさかコメさえも食えない時代に入った。いまだ、その先の光明は見えていない・・・。
今日、この国に武人はいない。かつての橋田先生は文人だったが、その本質は武人だ。僕も武人でありたい、日本基督教団のような連中は唾棄する。
嗚呼、ぼくが主を知らなかったら三島と同様の道を歩んだかも。いや、腹を切るのは痛いからなー・・・

Dr.Lukeの映画『教皇選挙』からみるカルトの手法-飼育したい牧師と飼育されたい羊さんの需要と供給の関係-
リアルと映画がシンクロしているこの作品、観てまいりました。やけ …
リアルと映画がシンクロしているこの作品、観てまいりました。やけにご婦人が多くて、多分カトの信者なのでは?と思えるオーラを醸していました。
感想は、映画の中でも揶揄され[1]この手の作品が制作される事自体、キリスト教の欺瞞性と愚かさが広く認識されてきている証左であろう。、キーパーソンも言っておりましたが、
「ここはナンセンスな組織だ」
で、その人物の正体は、開けてびっくり玉手箱。カトが根底から崩壊するが、さもありなん。
今週のマイメッセのテーマでもあるが、内なる偶像と外なる偶像が共鳴するところに宗教が成立するわけ。この点で、カトもプロも実質は同じなのだ。
さあ、リアルはどーなるのかな?
ということですが、宗教組織に所属することが救いではない。この点、カトもプロも同じ穴の狢、時代は「正統」も「異端」も小島よしお。ポイントはその団体や個人との間に働く心理的力学だ。承認獲得欲求と認知的不協和の間で葛藤する病理があれば要注意だ。搾取されるからねー。
実例としては辺見まりが拝み屋に5億を騙し取られた経験から学ぶMCの手法がわかりやすい[2]専門的に言えば、マインドコントロール(MC)と洗脳には違いがありますが、ここでは細かいことは・・・・。。心理操作、マニュピレーションに引っかかると、自分が騙されていることにも気づかない。彼女の指摘する洗脳プロセスで自分を測ってみましょう。



いわゆる「使徒信条告白~」してる正統看板教会でも、安心はできません。それがアリバイ作りになってるだけ。特に、教会の中で互いに争うように、牧師や他の信徒の承認を得るために、奉仕とか、伝道とか、時に献金に入れ込んでる向き、社会生活に障害が生じてませんか?それは最後の洗脳のプロセス、「囲い込み」の段階にあることの兆候ですよ!

要は、何でも愛して許してくれるという「安心感」を与え、日常性を超えた現象を見せて「驚き」で引きつけ、自分にはそれがないという「嫉妬心」を掻き立て、それを得たいと思わせて自分に引きつけ、ついには自分の世界に「囲い込む」。これがカルト教祖や占い師や拝み屋の手法。時にライフコーチも。で、ボクシもね
ついにはこうなります。

バベル憲章の動機の上に立てられるものは必ずこうなります。

なにしろ、牧師は信徒を飼育するのだと公言して憚らない輩も出現する時代。一方、ニッポンキリスト教なる業界には飼育されたい羊さんたちもけっこう多い。この需要と供給の関係がある限り、業界が消滅することはないであろう。だから、エクソダス!

あ、いえ、飼育されたい人たちはどうぞそのまま。バビロン捕囚された者の中にもそこに留まった者たちもけっこういたのですから。

この作品、きわめてシビアなテーマだ。「人は見たくないものを見ず、聞きたくないことを聞かない」とセリフにあったが、まさに自分の生活意識の外に置いておきたいテーマである。
認知症老人介護に疲れ果てる家族を「救う」ために42人を殺した介護士斯波。女性検事大友の追求に対して「ぼくは彼らを救ったのだ」と。彼自身も壊れていく父親の介護でギリギリに追い詰められ、父親の「自分が何者か分からなくなるのは恐怖だ、人でいられるうちに逝きたい」という嘆願でニコチンを打つ。それは父親を「救う」ためであった。
その後、介護士になり、次々に・・・。彼は聖書の黄金律「自分のして欲しいと思うことを人にもせよ」を実践したのだ(これが誤訳であることはすでに指摘してるが)。
また彼を糾弾する検事大友もクリスチャンの母親が認知症でホームにいるという同じような境遇にあった。しかし介護士斯波は、自分は泥にまみれているが、検事は安全な場所で理屈だけを述べている、と非難する。
・・・が、ラストシーンでは検事が、「わたしも父親を”殺し”たの」と隠された悲惨な過去を告白し、本音とホンネがぶつかり合って被告人と検事という葛藤する立場の二人の間にある種の共鳴を生むのだった。
極私的にはこの場面が救いだった・・・。
で、なんと舞台は諏訪だ。ぐるっと山に囲まれた閉鎖空間の最たる地域、ドラマに実にリアリティがある。テーマ曲が「さもありなん」とは・・・。諏訪湖など見慣れた風景がいくつも出てきて、ついおふくろを思い出した。彼女も認知症要介護2で、最後はグループホームに全面的にお世話になった。
経験者として言うと、自力介護は不可能である
と見切る必要がある。斯波が言う通り、家族の絆あるいは情がむしろ当事者双方の呪縛となるのだ。人が人を救うことなどは元より無理。牧師たちがそれを知らないで勝手なことをして、逆に人をイエスから引き離し、自身も病むのだ。
多分、着想はあの相模原の福祉施設での大量殺人から得てるのだろうが、ちょっと視点は異なっている。福祉現場はしばしば病んでいる。学生時代に見学した施設では、車いすの老人のそばにしゃがんだ若い介護士が僕たちを見上げて、
「あんたらは親のカネでそうやってぬくぬく生きてるんだろっ!この人を見てみよ!何も感じないのかぁ!」
と涙を流しつつ叫んだ。こちらはポカーン。映画の斯波のように自身の境遇を老人に投影して自己憐憫ワールドで生きているのだ。あるいは大友のように親を見捨てた罪悪感を「福祉サービス」という美名により補償する試みなのだ。
この病理はニッポンキリスト教でもしばしば観察される。自分の欠損を補うためにあえて牧師になりアイデンティティやプライドを再獲得しようとしたり、自分の良心の宥めのために奉仕活動にいそしむ者が実に多い。彼らはどちらも自己憐憫ワールドの住人なのだ。その病識もなく、彼らは日々「信仰に励んで」いるわけ。いずれバーンアウトするのは必定なのだが・・・。
福祉現場と宗教現場、私の目から見ればどちらも同様の病理を抱えている閉鎖空間(タコツボ)であると見えるのだ。まあ、その系の人は絶対に認めたくないであろうが。
なお、松山ケンイチと長澤まさみの演技はリアリティと迫力が素晴らしい。

ゲバラのことば:クルね、何気にバイブルと重なる。ただし、社会主義の致命的欠点はそれを神の霊によらずになそうとすることなのだが・・・。しかし彼はビジュアルも最高だ。
「バカらしいと思うかもしれないが、真の革命家は偉大なる愛によって導かれる。人間への愛、正義への愛、真実への愛。愛の無い真の革命家を想像することは、不可能だ」
―バイブルいわく、愛のないフェイスは虚しい、大切なのは愛によって働くフェイスである。
「きみたち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目にあわされて、腹が立たないのか」
―まことに。安倍ちゃんらニッポンの政治屋のアメリカすりすりの顔見てごらん。実に卑しい。ゲバラの高潔な顔と比べてみよ! 最近の岸田などはもはやバカの極致。
「ある日の真実が、永遠の真実ではない」
―バイブルいわく、見えることは一時的、見えない真理が永遠。
「人は毎日髪を整えるが、どうして心は整えないのか」
―ジーザスいわく、宗教とは白く塗られた墓である。
「最も重要なことは権力を握ることではなく、握った後に何をするかを明らかにすることだ」
―ジーザスいわく、世の権力者は人を支配するが、あなたがたは仕える者であれ。
「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ」
―ジーザスいわく、誰を探しているのか。わたしだ。父よ、時が来ました。わが霊をあなたに委ねます。

Dr.Lukeのちょっと長い映画評:『アレキサンドリア』-キリスト教徒の狂気による科学者ヒュパティアの惨劇
このYouTubeは視聴注意だが、事実はもっと残虐であった。そ …
このYouTubeは視聴注意だが、事実はもっと残虐であった。それを描いた映画『アレキサンドリア』、2011年3月5日公開。実は311の際、ぼくたちはみなとみらいで鑑賞していた。映画の紹介欄から-
オスカー女優のレイチェル・ワイズが、4世紀に実在した女性天文学者ヒュパティアを演じる伝記映画。「海を飛ぶ夢」(2005)のアレハンドロ・アメナーバル監督がメガホンをとる。舞台は激動のローマ帝国末期、エジプト・アレクサンドリア。明せきな頭脳をもった美しい女性天文学者ヒュパティアは、身分や立場にとらわれることなく、多くの弟子たちに熱心な講義を行っていた。しかし、科学を否定するキリスト教徒と学者たちの間で激しい対立が起こり、やがてその問題の矛先はヒュパティアに向けられてしまう。本国スペインでゴヤ賞7部門を受賞し、大ヒットを記録した。
啓示録2-3章にある七つの教会は当時の断面的状況であると共に、その後の歴史をも啓示している。
初期のエペソ(好ましい)は褒められているが、すでにニコライ派(教団教職)の”行い”(つまり単発的)が侵入している。続くローマによる迫害時代のスミルナ(苦難を意味)へ、その後のコンスタンティンによる公認を経て、ペルガモ(結婚・結合を意味)、つまりローマ帝国(政治社会)と結合した国教会に堕する。ここでニコライ派は”教え”として確立し、教会の内部にサタンの座が据えられた。すなわち政治的社会的な教団教職制度の確立だ。神の敵悪魔が身を隠す場所としてもっとも具合がいいのはキリスト教の中である。
これ以降、いわゆる宗教組織としての白いキリスト教が発展する[1]ずっと後に東西の大分裂(シスマ)を経るが。。その白いキリスト教徒がなした事件がアレキサンドリアの惨劇。彼らから見て異教徒である数学者にして哲学者の美女ヒュパティアの惨殺事件だ。この辺からキリスト教は科学を否定する迷信・妄信・狂信の世界に入り込む。[2]今も野鳥の羽根を天使の羽根と称し、金歯が生えた、金粉が舞ったと叫ぶ連中がいる。
これ以降、キリスト教の歴史はサタンの深みを有するイゼベルの支配するテアテラ(香の祭事)つまりカトリックによる中世の暗黒時代、サルデス(残された者)すなわちルターなどの宗教改革によるプロテスタントの時代へと続くが、彼らは死んでいると評されている。
叱責のないあり方は先のスミルナと、サルデスの次のフィラデルフィア(兄弟愛)、彼らには力は僅かだったが主の名と言葉を否まなかったとして、勝利者の冠が与えられる。最後にラオデキア(大衆の意見議論の意味)では、自分たちは豊かになった;目が見えると自慢しているが、イエシュアは戸の外に追い出されている始末。これがいわゆるキリスト教の現状だ[3] … Continue reading。
帝国主義と裏表になった白いキリスト教が世界を動かしてきたことは事実だが、けっして理想世界を実現したわけではない。世界史を見てみよ、むしろその歴史はグロい。イエシュアを個人的に信じ受け入れることと、キリスト教に入信することは必ずしも一致しない。
牧師と信徒の線引きを置く教団教職制度(ニコライ派)によるプロテスタントは大バビロンのひとつの現れであるカトリックの娘たちである。よく言われるが、カトリックは船長(教皇)を擁する豪華客船に譬えられ、プロテスタントは船頭(牧師)が汗水流す無数の手漕ぎ舟群に置き換わっただけであると[4]しかるに、日本基督教団をはじめとして、世界ナントカ同盟とか、なぜか彼らは徒党を組みたがるのだ。。まことに至言である。
終わりの時代、スミルナかフィラデルフィアの状態に留まること(もちろん他の教会にも勝利者は残されているが)。そのためには、汚れた鳥や獣の集まる巨大樹木と化し、バビロン化している宗教組織としてのキリスト教をエクソダスせよ、と20年以上提唱している次第。
なお、最近ではキリスト教を経ずに直接イエシュアを知る人々が増えていることは大いなる希望である。

観てまいりました。英雄ナポレオンも破竹の勢いで英国、オスマン帝国、ロシアを除いた全ヨーロッパを支配したものの、ロシア遠征で敗北しエルバ島に流されるも、再起して、ワーテルローの戦いに臨み、ふたたび完全敗北。これでセントヘレナ島に流されて、そこで屈辱的処遇を受けて死ぬ。死因は胃癌とか毒殺とか言われてるようだ。
彼の不幸は家庭にもあった。最初の妻ジョセフィーナが不妊の女だったのだ。妾に産ませ、ジョセフィーナが生んだことにしようとするも、この計画は頓挫。結局国家のために離婚となる。後添えは見事に男の子を産むが、ジョセフィーナに対する想いは一生続く。彼女は若いころ彼に予言をしている、「あなたはわたしがあってこそのあなた。わたしがいければ無力よ」と。これはナポレオンの彼女に対する想いを返したものだったが、人生をかけてその言葉が証明される。・・・というストーリー展開。
ホアキン。フェニックスのセリフの言い回しがもごもごしてるのだが、これが逆にリアリティーを醸し、その病的な雰囲気が独裁者の苦悩と孤独感を巧みに醸している。現代の法律体系の基礎を作ったのがナポレオン法制だそうだが、彼は自分の民法に絶対の自信を持っていたそうで、注釈書を禁じたとそうだ。
ちなみにワーテルローの戦いは霊のロスチャイルドが大儲けした裏話があるのだが、これは有名だからだれもが知っていると思う。洋の東西を問わず、大衆に持ち上げられて英雄とかアイドルに据えられることは実に不幸なことであると分かる。

まずは先週:TVの韓流恋愛ドラマなどはとーってもじゃないが観てられないが、戦争モノや政治モノはかなり迫力があって、オトナの鑑賞に堪える。というか、『沈黙の艦隊』などのニッポンのソレ系よりはるかに重みとリアリティがある。
で、本日はこの作品を。100dB以上の騒音で爆発する爆弾を公共の場に仕掛けた高IQの元潜水艦乗り。それは単なるテロではなく、上層部の思惑が真実を覆い隠していたためだった・・・。
一般に、潜水艦モノは『クリムゾンタイド』、『レッドオクトーバーを追え』、『U-ボート』、『ハンターキラー』、『K-19』など、かなり極限に追い詰められた緊迫したシチュエーションが描かれる。今回のコレもきわめて厳しい葛藤が潜んでおり、単なるバイオレンス作品になっていない点が評価できる。
そして本日:2週続けて韓国映画を観てまいりました。戦争モノや政治モノは実に面白い。日本に併合された時代の抗日運動に関わる者たちの運命を描いている。女性ふたりが機関銃をぶっ放す場面はかなりCOOOL
わが国はすでに何度も指摘した通り、分裂した自我国家であるが、朝鮮も一枚岩ではないのだ。精神的にも分裂しており、戦後は国家としても分裂した。でも、統一されるとすれば北に吸収される形になるだろうと思っている。
韓国人が日本語をしゃべるのだが、そのセリフはちょっと不自然だが、まあ、日本名を付けられ、日本語を強制されて、当時もこんな状況だったのであろう。時代がよく再現されている。

続き:実在したガブリエーレ・アモルト神父の著書に基づくものだそうだが、まあ、SFホラーチックな部分やカトのメダイに頼ったり、ロザリオの祈りやマリアに祈る部分は捨象しても、それなりに納得のできる作品となっていた。
最後に、勝利のカギはフェイスであると!
追記:今回のススキノ殺人事件などは多分のこの系によるものと思われる次第。

かつて学生さんに、センセイ、『ワンピース』みたことあります?と聞かれて、ないと答えると、センセイ、人生半分失ってますよ、と。また『スラムダンク』は?と言うので、それもないと答えると、同じ回答が。それじゃ、ぼくは人生全部失ってるじゃん、と。
そこで本日、人生を半分挽回するために観てまいりました。
いつも江ノ電の鎌倉高校前脇踏切に写真を撮る人だかりがあるので気にはしていた。感想は、いや、アニメとバカにしていたが、これがなかなかのデキ。ストーリーも映像もリアルで、つい手に汗握るモードに。ラストは感動・・・という次第。江ノ島のおなじみの光景が展開して、これも身近に感じられてよかった。

ちなみにわが次女はぼくより身長があり、高校時代はバスケ選手として国体に出場した。大学ではバスケ部部長もしていたのだが、ぼくはバスケには中学時代のトラウマがあるので、なんでぼくの娘が?と思っていたわけ。バレーの栗原恵と木村沙織を足して2で割ったイメージで、この写真などは親からみても間違える。バイト先では客がなんでここに栗原が?とひそひそされたらしい。今は三人の母となってますが。
多分、若者はこういった人間の連帯と感動に飢え渇いているのでは?と思った次第。また人生、最後まで諦めるな!とのメッセで励ましを受けるのだろう。
極私的にはこれでまた江ノ島が楽しくなるかな😎

三回目を観てまいりました。いぜん、客は満杯。何度でも味わえる作品。
ただ?が解けないのは、チャーリーとの関係の顛末とペニーとの経緯だ。過去に付き合っていたが、マーヴェリックの無鉄砲さでイラクなどへ飛ばされて一度破局した模様。ペニーも別の男と結婚したが離婚した感じ。それが偶然にこの訓練地で再開すると言うわけ。この点以外は実に納得だ。
一作目が29歳の時だから、人生をほぼほぼ共有してるわけだ。トムも60を超えても現役、劇中でもポンコツのF-14で第五世代戦闘機を二機落とすというところで、われわれ世代もまだまだと励ましを受けるのだな

バル・キルマーがリアルでも末期がん、トムとのリアルの男の友情と敬愛の情がそのまま劇中に反映されている点もウルっとくる。トムの生き方そのものが表れている、リアルとヴァーチャルの境目がない作品とも言える。
原爆基地を破壊するシーンは『スターウォーズ』のデススター破壊の場面を髣髴とするわけで、いろいろ連想できるのも魅力だ。
これからDVDでも何度も観るだろうな。ちなみにこれはお遊びね😊

この研究結果はある意味決定打となるかもしれません。
現代進化論は木村資夫氏の中立説だ。つまり偶然に益にも不利にもならない変異が起きているということ。だから確率微分方程式を使う。今回の結果はそれと矛盾するってことです。
そろそろワクチンの副作用も明らかにされるでしょう。
ヒトが容易にマニュピレートされることは証明されましたね。
今回のウイルスも人工的なものであることはもはや否定できないわけで、漏れたのは中国のミスとしても(P4施設を爆破することでわかるでしょう)、誰が儲けたか見れば事の真実は分かるでしょう、ってお話です。
この方はかなり初期段階で告発してましたね。

再び鎌倉巡りをと思っていたが、マンションの会議があることを想い出し、鎌倉巡りはお預け。結局、映画を。”TOP GUN”から様変わりのコレ、戊辰戦争時に武士の魂を貫こうとした男、河井継之助の物語。長岡藩の存亡をかけて中立主義を貫こうとしたが、失敗。やむを得ず戦火に巻き込まれて、敗退。逆賊の汚名を着せられ、最期は流れ弾を受けて破傷風で、というやや惨めな結末。
あの時代、日本が二分され、討幕派か佐幕派、西軍か東軍かどちらに就くかで命運が決まった。結局のところ時代の流れは薩長に味方するわけだが、はっきり言って彼らは武士の大義を放り投げ時流に乗るだけのヤクザ的集団。明治維新は司馬遼太郎が描くような高潔なものではなかったのだ。
裏には欧米各国の思惑が渦巻いており、「坂本龍馬」も脚色された英雄、その筋から資金援助を受けてその思惑のために利用された。その後、日本では男が男としての矜持を貫くことはできなくなった。
岸田秀の言う、外的自我と内的自我に分裂した日本は、西欧諸国、特に日本の魂を破壊したアメリカに復讐を果たすべく富国強兵、日清、日露、WW1、WW2と戦争に突っ込み、唯一アメリカ本土を空爆した国となるも、最後は原爆で壊滅。それ以後、牙を抜かれたまま米の属国として今日まで生き延びているわけだ[1]ぼくの歴史観は東京裁判史観でも皇国史観でもない。精神病理史観である。。
私は、日本はアメリカの超長期的対日政策により、開国=政治的去勢、原爆=軍事的去勢、バブル崩壊=経済的去勢、原発事故=倫理的去勢と、4回去勢されてエディプス葛藤において挫折していると診ている。だからもはや自立はできないのだ。今後、中国と米国の覇権争いの狭間で、ちょうど河井継之助の如く中立を貫こうとするも、最後はどちらかに飲まれていくのかもしれないと、近未来ニッポンの映像を見た感じがした作品であった。
ニッポンはすでにこの記事で予測したとおり、希望と展望の喪失、経済の停滞、少子化など生命力の枯渇を呈して来ており、分裂病の末期である陰性症状期に入っていると見えるのだ。

観ました。一言、期待に違わず1986年、新宿スカラ座で一作目を観た。その後ニッポンは急上昇、バブル景気に。ぼくもその上昇気流に乗せてもらった。この作品はある意味、人生を共有してる感覚
極私的に今回の観どころは、アイスマン(バル・キルマー)がどう扱われるのか、チャーリー(ケリー・マクギルス)との恋の顛末はどうなってるのか。アイスマンについては「なるほど」といった扱いで(ネタバレになるのでヒ※ミ※ツ)、とてもよかったが、チャーリーが一切出てこないのは「?」だ。想い出すら出ない。グースの妻(メグ・ライアン)のその後は描かれていたのだが(これもヒ※ミ※ツ)。
今回突如登場したペニーとの関係がどう始まったのかもよくわからなかった点がやや不満だが、全体としてはとてもよく仕上がっている。かつてのイメージを彷彿とさせる場面がいくつもあり、音楽も含めて一作目を引き立てるとともに、独自のストーリーもよくできていた。NATOが登場するのはまことに時節柄で、コロナで2年延期されてちょうどのタイミングかな?
期待値が高い分、大丈夫かなと思っていたのだが。面白かったのは、客層がやはり青春時代をもう一度的な人たちで、最後に拍手をしたおじさんもいたのだった
も一度観るつもり。お薦めでーす

そして彼の意識には人生において真に大切なものは何かを、常に神との関係において問う。『グラントリノ』、『運び屋』でも本作でも「神」に対する問いかけがなされる。まことにソロモンが「若き日にあなたの造り主を憶えよ、年がいって何の喜びもないと言うようにならないために」と証しするとおりだ。

つづき:
繰り返すがジーザスはキリスト教の教祖でもないし、聖書はキリスト教の経典でもない。キリスト教なる忌まわしいマトリックスとキリストご自身の切り分けができた人は幸い。これを混同して『アンチキリスト』を書いたニーチェはあのような末路を辿ったのだった。キリスト教から二回目のエクソダスをした者は幸いだ(☞セコンド・エクソダス@YouTube)。
(この作品、客の入りはいまいちのようだ。確かにテーマが娯楽とは言えない向きだからかな?)

つづき:函館の五稜郭はかつて訪ねたことがあるが、蝦夷地政府を樹立できると土方は本当に考えていたのだろうか? それにしてもこの時代に生まれていたらぼくはどんな生き方・死に方をしていたのだろうか?

韓国はあまり好きな国ではないが、その映画の実力は日本をはるかに凌駕する。とにかくリアリティが重い。銃声や爆弾の音が生。対する日本のそれらは花火だ。
実話に基づくこの作品もかつては革命を同志として戦ったパク大統領とKCIAの部長キム氏の葛藤を描く。大統領はその後の当初の理想や大義を忘れて独裁政権と堕し、自分に都合の悪い存在を次々に粛清する。秘密の場所でお気に入りの女性に「接待」させるのだが、その女性を見繕うのも個人情報を握っているKCIAの役目だったとか。大統領は自国民をも粛清することを辞さずと戒厳令も。
キム部長はそんな大統領を諫め、悔い改めを進言するが、徐々に疎ましく思われて冷遇される中で、ついに1979年10月26日、その宴席で大統領に銃弾を浴びせる。
信長と光秀の場合もだが、クーデターを仕掛ける側には大義が要る。この事件も後にチョン・ドファンにより、単なる私怨による殺人事件として処理される。キム氏はあくまでも韓国の自由と民主主義のためであったとして、潔く処刑されるのだ。光秀もだが、仮にその大義が真実としても、事後対策の案が欠如している。戒厳令を布いて軍を掌握して新政権を打ち立てるのも無理があるし・・・。
というわけで、今回のアメリカ大統領選も連想してしまった次第。もしトランプが戒厳令を発令していたらどうなっていただろう?果たして大義はトランプにあるのか、バイデンにあるのか・・・・。まあ、歴史はつねに勝者によってその正統性を証明するために「書かれる」(記録されるのではない!)ものなのだが。

あのタイタニックを超えるとかで、ちょっと観てまいりました。
第一印象は、疲れた~。要するに闇の勢力が超自然的な再生力を駆使して、無力な人間に攻撃する。人間はその不条理の中で「鬼になれ」との誘惑に打ち勝つも、肉体は滅ぼされる。闇の勢力が恐れるのは朝の陽光であり、しかし人間は彼らのテリトリーである闇の中で鬼と戦う。当然のこと哀れにもやられてしまう。
人は脆いが愛おしい存在である。その脆さを訓練により克服しようとするも、壁は次々に出現し、強敵と対峙する必要がある。その中でも人は前進し続ける。そしてその努力を知って最後に褒めてくれる存在が母なのだ。人は母の「よくやったね」の一言を得て慰めを受ける・・・。というモチーフかな。
これ、ある意味で生に対する絶望的実存状況を描いている感じだ。生まれたくて生まれたわけでなく、死にたくて死ぬわけでもない、生自体が不条理であり、その中で到底かなわない闇の勢力と戦い続けるため、己に打ち勝つべく、たゆまい努力をしなさい・・・というメッセージと感じられる。
うーむ、救いがない💦
これが世界的ヒットとは、いかに世の中が渇いているかの証拠か?
対して主イエスは言われた:
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
この映画を観た後、改めてホッとする言葉ではないか・・・・。
追記:あとね、人は無意識を刺激されると、夢か現実かの区別もできなくなるとも。確かにね、世は夢芝居、浮世狂言ですから。

・・・と、何となく死と復活のイメージがあるのだが、アニオタの皆さんの解説をヨロシク。