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Tag: エクレシア

Dr.Lukeのワンショット―ソウル・マトリックスからの解放

弟子は師以上には行けない

これはジーザスの言葉。私たちの究極の師はジーザスただひとり。しかし、五感の領域に生きる者として、初めにどのような福音を聞き、どのような礼拝に与り、どのような聖書の読み方・祈り方を刷り込まれるか、これ、後々までその人のフェイスのあり方に深く影響を与える。

「ワンマン・チャーチ」なるものはあり得ない。私たちは必ず交わりの中で霊のいのちを供給され、養われ、成長する。この意味で、目に見える自分のメンターたる存在は、祝福された霊的歩みにとって実に重要なのだ。そのメンターの霊的視力がどこまで届くか、それが私のフェイスの領域をも決める。良い模範、モデルを持つこと。この点、私は幸いだった。

『リバ新』と関わるまで私は、ニッポンキリスト教メインラインとか福音派とか聖霊派とか、ペンテコステ・カリスマとか・・・、その区別すらまったく知らなかったのだ。谷口氏にいろいろ教えてもらったが、彼も「この業界はすごい処ですよ」と言っていた。その間にある相克というか同類嫌悪みたいな現象も・・・。私にとっての当たり前がそこではそうでないことがよく分かった。その後、いやというほどこの業界の暗部を見せられた。

Colin Urquhartは私をただジーザスへとフォーカスしてくれた(⇒http://www.kingdomfellowship.com/Ministry/Articles/Colin.html)。そしてこれからもただジーザスのみにフォーカスしていたいのだ。究極にはウォッチマン・ニーの模範があり(⇒http://www.kingdomfellowship.com/Encourage/encourageinf.html)、Colinもニーの影響下にあるが、<今、ここ>で、目に見える等身大の模範を持つことは幸いなのだ。小さくまとまるつもりはないし、1DKのフェイスもごめんだ。霊の視界をどれだけ広げていただけるか、カギはそこにある。

Dr.Lukeのワンショット―霊と魂の場

Dr.Lukeのワンショット―聖霊のメモリー

エクレシアって何?

いまさらながらだが、キョウカイなる訳はもう手垢が着き過ぎで、エクレシアと言いたいことは前々から書いている。が、改めてエクレシアって何?・・・よく言われるのは、建物でもなく、教団や教派や宗教団体でもなく、召し出された人々の集合体。確かに、そうだ。

パウロ・・・が、コリントにある神の教会、〔すなわち〕キリスト・イエスにおいて聖められた者たち、召された聖なる者たちに〔この手紙を書き送る〕―私たちの主イエス・キリストの名を、いたるところで呼び求めているすべての者たちと共に―・・・-1Cor 1:1-2(岩波訳)

しかしながら、それは地上の五感の世界のオハナシに過ぎない。エクレシアの霊的定義とは―

この教会はキリストの体、すべてのものをすべてのものの中に満たす方の充満である。-Eph 1:23(岩波訳)

ここを通常の邦語訳では、「・・・満ちているところ」とか「」としてしまう。これがワナである。エクレシアとはキリストの充満である(岩波訳注参照)。つまり、キリストである。See? 

さらにこうある―

なぜならば、からだが一つでありつつも多くの肢体をもつように、また〔逆に〕からだに多くの肢体がありつつも一つのからだであるように、キリスト〔自身〕もまたそうだからである。-1Cor 12:12(岩波訳)

この節を用いて、しばしば、「私たち教会はキリストのからだであるから、それぞれに機能が違っているが、みんなで争わず一致しましょう・・」的な説教がなされる。つまり、キリストは頭であり、エクレシアはそのからだであると。さて、パウロはそう言っているであろうか?

ここをよく読んでほしい。「キリストのからだの場合もまたそうだから」とは書いていない。「キリスト〔自身〕もまたそうだ」とある!前者ならば確かによくキリスト教でなされる説教となるであろう。が、パウロはここでキリストご自身とからだを区別していないのだ!つまりエクレシアはキリストなのだ。これがエクレシアの霊的アイデンティティーだ。はあ?と言われる人にはひとつ質問しよう:あなたのからだは誰か?あなた自身であろう?胴体と首を切り分ける人があろうか?それは死を意味するのだ。それらは同じいのちを共有し、同じ血液によって維持されている。

エクレシアとは霊的かつ宇宙的生命体である。それはZoeそのものであり、われわれはその霊的生命体の中にバプテスマされたのだ。

主に接合させられる者はしかし、〔主と〕一つの霊なのである。-1Cor 6:17(岩波訳)

RWPはこうコメントする-

One spirit (hen pneuma). With the Lord, the inner vital spiritual union with the Lord Jesus

しかもキリストは二千前に十字架につけられたのではない。

 And all those dwelling in the earth will worship him, those of whom the names had not been written in the Book of Life of the Lamb having been slain from the foundation of the world.-Rev 13:8

この「世の基が置かれる時から」を「いのちの書に名前の書かれていない者たち」にかけるのが通常の邦訳であるが、これは「屠られた小羊」にかかるべきである。つまり小羊は世の基が置かれる時からすでに屠られていたのだ!これが時空間を超えた霊的サブスタンス。それが神のフェイスにより時空間の中で実体化されたのがあの二千前の十字架である。霊の世界はこの時空間を超える!フェイスは永遠のNOWの実体化である!すべてはすでに完成していたのだ。これが神のフェイス。ジーザスはそのフェイスを持てと言われるのだ。

フェイスを持て。-Mark 11:22

これは通常、「神に対する信仰」と訳されるが違う。対格ではなく、属格。つまり、「神フェイス」。WOW!!! 神はすべてを語り出すことにより創造された。それはフェイスのパワーだ。イエスは言われた、

わたしが話した言葉(レーマ)は霊であり、またいのちである。-John 6:63

このフェイスに生きる者たち、つまりエクレシアとはキリストの充満そのものなのだ。それはキリストであろう?なぜ?キリストのいのちの息吹を吹き込まれた存在だから。この体(Body)と魂(Soul)はアダム由来であるが、それはわれわれのまことにアイデンティティーではない。われわれは新しい創造、すなわち神から生まれた霊であり、エロヒム属のもの、ヤーヴェ家の一員なのだ。ゆえにジーザスは詩編を引いて言われた―

そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々(エロヒム)である』と書いてあるではないか。神の言葉(ロゴス)を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。-John 10:34-35

ここで、YHWHを「」と訳し、Elohimを「神」と訳したことが罠になると繰り返している。そのままにせよ。神のロゴスを受けた人は、もっと言えば、神のロゴスから生まれた者たち(1Pet 1:23)はエロヒムである、とジーザスが証言したのだ。YHWHは父・子・聖霊なるお方であり、もっとも高きエロヒム。われわれはその神格を共有しないが、同じZoeのいのちを共有するエロヒム属なのだ。

が、YHWH(父・子・聖霊)なる神(エロヒム)は私たちの内に住まわれる。聖霊だけが内住されるのではない(John 14:23参照)。かくして神の霊から生まれた子供、God-OSをインストールされた私たち、つまりエクレシアは神をエミュレートするのだ(Eph 5:1)。キリストは父をエミュレートされた、すなわち彼は自分からは何もせず、父が語ったことを語り、なさることをなした。そのキリストを聖霊が私たちのうちにおいて実体化、すなわちエミュレートする。かくして私たちをとおして、父がエミュレートされるのだ!ゆえにジーザスは言われた-

はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。-John 14:12-14

YHWHエロヒムはこうして自己増殖されるのだ。これこそが神の国の増殖に他ならない。まことにこのとき、

天の父よ、御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が天になるとおり、地にもなりますように・・・との祈りが成就するのだ。

Glory be to God!!!

Dr.Lukeの一言映画評―『復活』

ハリウッドにジーザスをテーマにした作品が多々あるも、この視点からの描かれたものはないかもだ。復活が意味すること。人は死者の復活というこれまでのパラダイム(マインドの構築した世界観)に反する事態に対して、いかなる反応をするのか。すでにジーザスは復活した。この事実を妄想とするのか、偽りとするのか、それとも自分のパラダイムを否定して事実とするのか。要するに福音とは、自己を否むこと、自分の十字架が要求されるのだ。

しかし、復活は単に事象としての奇跡で終わらない。ただ単に「われはキリストの死と復活を信ず」と唱えても、それは宗教に過ぎない。が、神はキリストの死と復活により新しい創造を生成した。神は新人類、すなわち新生命体(ニュークリーチャー)を生み出したのだ。そのわき腹から流れた血と水、そして聖霊によって新しく生み出された存在、つまりエクレシア。エクレシアとはキリストの充満(Eph 1:23)。邦訳によくある「キリストが満ちておられる”ところ”」ではない。キリストご自身の充満!それはキリストのいのち(Zoe)そのもの、新生命体だ。

キリストは復活された週の最初の日の晩に弟子たちに現れ、ご自身の息を吹きかけて言われた。聖霊を受けよ、と。それは復活のいのちそのもの。アダムは神の息を吹き込まれて生ける魂とされたが、弟子たち、つまりエクレシアは第二の人類の初穂であるキリストの息を吹き込まれ、そのいのちの充満とされたのだ。これがニュークリーチャー。われわれも時空間(五感の領域)を超えて、キリストと共なる死と復活にあずかり、その新しい生命に参加させられている。十字架は単に歴史事実だけではない。神はすべてのみわざを永遠のNOWにおいてなされる。なんというミラクル!ハレルヤ!

わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。-Rom 6:4

Dr.Lukeのワンショット-エクレシアの真理

新しい生命現象を見ること

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前にLAのガイドブックを知っていることと、LAを見ることとは違うと書いた。ガイドブックを隅から隅まで知っていたところで、現地を観ていなければナン センスとだれもが分かる。ところが霊的世界になるとこれが違ってくるのだ。聖書を実によく知っている人々がいる。あるいは解き明かしと称する作業が得意な 人々も多い。が、彼らの言葉を聞くと、実際に現地を観ているのか、ガイドブックを知っているだけなのか、これはLAに行ったかどうかが明白であるように、分かっ てしまう。

人類はアダムの堕罪以降、霊が死んで、霊的領域にタッチすることができなくなった。そのため神から切り離されて、魂(思い・感情・意志)を肥大化させて、特に知性によって世界を把握し、内的に構築したそれぞれの世界モデルに従って生きるようになった。魂と肉体の五感がカバーできる領域は物理的世界のみであり、霊的世界はその能力によって観測することはできない。つまりいくら聖書を知っていても、霊的領域を見て、それにタッチすることは決してできないのだ。だから、霊のアクティベーションが要る。霊は霊的サブスタンスにタッチするセンサーであり、われわれのアイデンティティーそのものである。私たちは肉体でもなく、魂でもない。霊である。そして私たちの霊は神の種から生まれた。それは神聖であり、罪や世や敵が触れることはできない。神から生まれたもの、それは神である。

神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。-1John 3:9

ここの訳も実は大いなる罠になる。クリスチャンは神から生まれた、ゆえに罪を犯さすことはできない(原語の意味)。はあ? 私たちは罪を犯しているではないか。またヨハネ自身も罪がないと言えば偽り者だと言っているではないか!(1John 1:8) こうして自分はほんとに救われているのかどうか、葛藤に落ちるのだ。これが日本語で考えてはならないと私が口を酸っぱくして言う理由である。「神から生まれた人」と訳するのが罠。原語では"pas"、「神から生まれたすべての存在」とするのが正解。また「生まれた」はgennao、Strongによればprocreate、その意味は「父から生成される」の意味だ。

要するに、何が生成されたわけ? それは霊だ。神は霊である(John 3:6)。霊から生まれるのは霊である(John 4:24)。それは神の種、すなわちDNAを有する。これが罪を犯すことはできないのだ。私たちの体に罪(Sin)が内住している現経綸では、体と魂はいくらでも罪を犯し得る。これが肉(flesh)。が、私たちの真のアイデンティティーは体と魂ではない! 霊である。その霊は分与された神の霊である(1John 4:13)。See? つまり私たちは神である。神になるのではない、すでに神である。アイデンティティーをどこに置くのか? これがカギ。

かくして教会(この用語はすでに手垢が付きすぎている)、エクレシアは単なる罪ゆるされたあわれな罪人の集合体ではない。そのように信じる者にとってはそのとおりになるだろう。それがその人のフェイスだから。それがいわゆるキリスト教会。再度、繰り返すが、エクレシアの定義はこれだ。

この教会はキリストの体、すべてのものをすべてのものの中に満たす方の充満である。-Eph 1:23(岩波訳)

これを「キリストが満ちているところ」とするから致命的にズレると前にも指摘した。エクレシアはキリストの充満。それは何? そう、キリストだ。何故? キリストの充満だから。キリストが満ちているところではない! よく読むように。キリストの充満、つまりキリスト。何か教会と称するがあって、そこにキリストが満ちていると考える人、あなたはとんでもなく読み違いをしている。充満とは場ではない。Strongはrepletion or completionと言う。それは充満であり、完成である。それは新生命体、ニュクリーチャー、新しい創造、まったく新しい種である! つまり神属なのだ。父なる神はキリストの傷から流れた血と水により、御霊からそれを生み出したのだ。それはキリスト教会でもないし、キリスト教でもない。iPS現象やSTAP現象のようなひとつの新しい生命現象である!

神は人間性において現れる。これが敬虔(godliness)の奥義(1Tim 3:16)。真に霊によって見た者は幸いである。それは各人のマインドのトランスペアレンシー(透過性)にかかっているのだ。

終末のふたつの教会-40年前のWilkersonの預言

2011年、突然の交通事故で召された同氏の40年前の預言。終わりの時代にはふたつのスーパー・チャーチができると。背教の教会とスーパーナチュラルなエクレシア。私がこれまで訴えてきたことではないか、WOW! 

キーワードはやはり、スーパーナチュラル&オーガニック。それはこの五感を超えた世界のリアリティーに生きる者たちの集合体。人の手のわざが入らないオーガニックな存在なのだ(Mark 4:26-29)。いわゆる地域教会としていかなる形態を取るかとか、運営システムはどうかとか、そのような小賢しい人の要素は一切入らない。

このコントラストは実に興味深い。しかし、神はなぜデイヴィッド・ウイルカーソンを取り去られたのであろうか?

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4次元立方体なるキリストのサイズを知れ!

それはあなたがたが十全な強靭さを得て、キリストの奥義の長さ高さ深さがどれほどであるかをすべての聖なる者たちと共に把捉し、人知を超えたキリストの愛を知って、神の全き充満へと満たされるためにである-Eph 3:18-19(岩波訳)

今回のメッセでキリストは領域であると語った。それがどれほどのものであるかを知れとパウロは言う。キリストの奥義のディメンジョンは4次元だ。私たちエクレシアが完成された新エルサレムは立方体。そのサイズは12,000スタディオン。旧約の至聖所も立方体。幕屋では10キュビット、ソロモン神殿では30キュビットだ。神の臨在の場は拡大するのだ。それは完全立体である立方体で象徴される。新エルサレムには神殿はない。太陽も不要。それ自体が神の臨在であり、光を放つのだ(Rev 21:22-23)。つまりわれわれ自身が神の臨在であり、神の光を放つ。イエスが山で変貌された姿はそのことの予告編。

至聖所は私たちの霊を象徴する。その霊は神の息(霊)を分け与えられたもの。つまり神であり、神の臨在そのもの。旧約では幕屋や神殿の奥に隠されていた。今はわれわれの肉の中に隠されている。だからそれはGodlinessの奥義、つまり肉において現される神だ(1Tim 3:16)。しかし新エルサレムはもはやまったく隠されていない。神の霊と私たちの霊とが融合した神の臨在そのものとされる。三なる神と人が共に住まい一体とされた存在。つまり3+1=4次元立方体なのだ!その3次元空間における展開図は、なんと十字架そのもの!つまりキリストの奥義の3次元空間ヘの影が十字架なのだ!あなたにはこのアニメを見て、4次元立方体が見えるだろうか?

参考:聖書が究極的に語ること

神を語り出す

はじめに言があった。言は神とともにあった。言は神であった。-John 1:1-2

この言はロゴス。神を表現する存在、もちろん御子である。ヘブル書では神のサブスタンスの現出と言われる(Heb 1:3)。見えない霊なる神たる存在をこの物理的時空間において肉体をとおして表現された。肉体は完全なる人。しかしそのサブスタンスは神。が、このお方はあくまでも人として生きられた。人であるから聖霊を注がれ、神が共におられたので、あれだけのわざを成し得た(Acts 10:38)。

神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。-Acts 2:22

イエスとは御子が地上に人としているときの名前である。神は人を通してご自身を証される。

神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。この敬虔の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、神は肉において現れ、"霊"において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。-1Tim 3:15-16

ここはよく、「キリストは肉において現れ」とあるがTRでは「神は」である。「敬虔の秘められた真理」とは奥義であり。Vincentはこう指摘する:

The mystery of godliness is the substance of piety = mystery of the faith (1Ti 3:9).

すなわち、神のサブスタンスがフェイスの法則によって肉において現出することである。これはキリストが初穂として模範を示された。エクレシアの原則もまったく同じ。われわれの肉を通して神は現れる。フェイスはいわゆる日本語で言うところの信心とか信仰とは違う。それは神が創造のわざをなさるときに用いられたパワー、そのフェイスを語り出すことによって万物が存在するに至った。マルコ11章22節を「神に対する信仰を持て」と訳する傾向があるが、これは神のフェイス。ガラテヤ2章20節も「御子を信じる信仰」とされているが、御子のフェイス。つまりそれぞれ

神のフェイスを持て。-Mark 11:22

生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子のフェイスによるものです。-Gal 2:20

ゆえに

義人はフェイスによって生きる。-Rom 1:17

普通、人は目によって生きている。視覚から得られる情報に基づいて物事を判断し、意思決定し、行動を起こす。教習所で言われる、認知→判断→行動というパタンだ。つまり視覚はひとつのパワーであり、大脳は自動的に世界の映像を構成する。いつも言うが、色はもともと存在しない。存在するのは電磁波なる物理的サブスタンス。そのある波長の領域のみを目が知覚し、視覚野に色が生まれる。これをクオリアと言うわけだ。われわれが内的に構成している世界の像はほんのわずかな物理的サブスタンスを用いているに過ぎない。

霊から生まれた私たちはこのような肉体に備わる五感の他に、霊によるフェイスを第六感として獲得した。このフェイスは物理的時空間を超えて機能する。だから二千前のイエスの死と復活にわれわれも与れるのだ。これ自体がスーパーナチュラルであろう。はっきり言うが、スーパーナチュラルを認めない者はフェイスを知らないことを自ら証明しているのだ。聖書を五感で読んで、ある者は文学的に、ある者は道徳的に、ある者は人生論的に、ある者は歴史書的に、オツムによって理解しているに過ぎない。それはフェイスではない!

イエスは神の国を地上にもたらした。神の国を現すためには何が必要であるか?語ること!

「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。-2Cor 4:18

語ることは神の言を解放すること。もちろん自分の主義思想などではない。神の言だ。イエスはうちなる父の言を語り出した。すると死者が生き返り、らい病が癒され、聾唖が語り出し、足萎えが歩いた。神の言を語り出すとき、その人の周りにはオーラが生まれる。それは霊のバイブレーションであり、そのオーラに包まれているならば、つねに神の国を運ぶことになる。人はそれぞれオーラを醸している。自分の問題や体調に拘束されている人は固く、冷たい雰囲気を醸す。暗い考えや希望のない思いに囚われた人はどんよりとぼんやりして、暗い雰囲気に包まれている。オツムで何でも処理しようとする人は神の国に参加するのではなく、傍観者的に見ているだけだ。自分が当事者であることを知らない。

セレブレーションでも真に霊が温められて、霊を解放している人は温かく、満ち足りたオーラを醸し出す。自分だけが恵まれたいと切望する人はかえって満たされない。なぜ?自分を捨てないからだ(Luke 9:22-23)。あくまでもすべての基準は自分の考えであったり、感情であったり、体の状態であったり、つねに自分が物差しとなっている。そのようなセルフのカプセルに閉じこもる人は神の霊をも排除してしまっている。だから神のわざを受けられないし、したがって変化しない。

声を上げることを私は強調しているが、声と霊は密接に関係している。たとえばあなたが旦那や子供をしかりつける時を考えてみてほしい。「あんたぁ!なにしてんのよぉ!!!」と心の底から怒りをぶつけるとき、あなたは怒りの霊を解き放っている。セレブではおとなしく、とても恥ずかしくて声を出せませんとか言いつつ、借りてきた猫のような状態であっても、家族に対しては自由に霊をぶつけているのだ!わかります、要点が?人は心にあることを口が語る。家族の中では無防備に何気におれるゆえに霊を自由に発散しているのだ。しばしばそれは神の霊ではないのであるが・・・。

だから、逆を考えてみればよい。私たちはキリストのマインドを持っている(1Cor 2:16)。そのマインドを発散するのだ。それが神の霊を解き放つこと。それは父なる神の言であるから、イエスがなされたと同じわざを成す。私たちが何かをするのではない。私たちの口を通して解き放されたれた父の言がわざをなすのだ。

そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。-Isa 55:11

私たちが神のロゴスを語り出すならば、それは神を語り出すことだ。なぜ?ロゴスは神だから!イエスがなされたことと同じ原則、メカニズムが働くのだ。ゆえにイエスは言われた

はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。-John 14:12

神を語り出すこと。これが「御心が天になるとおり、地にもなるように」の実際である。神はあなたの口を支配したいのだ。そのためにあなたが自分のメンツや恥ずかしさやためらいなどを破り捨て、声を上げる瞬間を待ち望まれている。あなたが神のわざを得られないのは、はっきりという、自分を裂いていないないからだ。自分を安全な場所に置いたまま、「イエス様、憐れんでください、癒してください」といったところでそれは働かない。イエスは盲人に歩いてシロアムの池に行けと言われたのだ。あなたはそのリスクを負うか?と主は問うておられる。すべてはあなたの応答次第なのだ!

トーラス-霊と魂の場

この図形、トーラスと呼ばれている。いわゆるドーナツだ。赤い線をメリディリアン、桃色の線をロンジチュードと言う(球面の緯度と経度に相当)。このふたつキレイに絡んでトーラスが構成される。

そして人間はトポロジカルにはトーラスなのだ。口から肛門までは実は外部。つまりドーナツの穴と言うわけ。その肉体は土のチリから構成された。その肉体を活かすのは霊。果たして霊がどこにあるのか?ソロモンはこう言っている:

あなたは、胎の中で風(霊)の道を知らない・・・Eccl 11:4

ここは口語訳では

あなたは、身ごもった女の胎の中で、どうして霊が骨にはいるかを知らない。

とあるが、写本の違いによるようだ(霊は物質に閉じ込められることはないから、骨の中にある(限局)というわけでない)。

私の著書の中で、霊と魂の場が存在することを指摘した。それはちょうど地球の磁力線のようなものであり、地球はこの磁力線によって太陽からの有害物質を遮断されて、守られている。この磁力線はトーラス。

私たちはうちに神を宿し、神の霊が私たちの身体の包み、守っているのだ。私たちが醸すいわゆるオーラはこの霊と魂の場の反映である。魂のうちにある要塞(傷・恨み・苦々しい思い・嫉妬・妬み、etc.)があると内なる神の霊のエネルギーの流れが阻害される。この霊のエネルギー流れの場を、磁力線にならって、霊力線と言っても良いかもしれない。魂のそれを魂力線と言えば、霊力線が魂力線によって乱されてしまうのだ。ゆえに信が発揮されるためには霊と魂の分離が必要となる。これは神の言葉(ロゴス)による(Heb 4:12)。

私たちの大脳は魂の働きと同期する。特に大脳とマインドの関係が重要であることは著書でも指摘した。マインドのパワーは神が保証している。マインドのトランスフォーメーションと共に大脳のニューロンネットワークやシナプスでの化学伝達物質などの働きも変化しているのだ。上のtoxic thoughts(毒性思考)などは明らかに大脳を損傷する。マインドが整えば、大脳生理も整い、感情、意志も整えられる。すると魂力線がキレイに流れるようになり、それは霊力線と絡んだり、その流れを阻害したりしない。要するに霊と魂の関わりが創造主の意図どおりになるのだ。すなわち魂は自律的に勝手に作動するのではなく、霊に即して、霊からの情報を受けて機能する。それはすなわち神の思考を受信することであり、知性はそれを言語や映像にして理解する。すると感情と意志もそれに従う。その結果が肉体を通して表現されるのだ。こうして神は肉において現れる。これが今週のメッセで語ったこと。

対して、マインドが悪霊の思考や言葉を受信すれば、罪定めや自責感などのネガティブな影響を受け、感情も暗くまた抑うつに閉じ込められる。すると内なる神の臨在はかき消され、霊力線も消失し、醸すオーラも暗いものとなる。うつ病の人は表情を見ればすぐに分かるが、それは彼らの発するオーラによるのだ。簡単に言えば、彼らの魂が強すぎるわけ。霊を圧迫してしまうのだ。また肉体の症状に囚われる人も、それによって魂と霊を圧迫する。魂と肉体を主体に生きる様を肉(flesh)と呼ぶことは何度も指摘しているが、まことに肉の思いは死であり、神に敵対している(Rom 8:6-7)。神に敵対するのだから、祈りが叶うはずがない。ゆえにわれわれは自分の魂を救おうとすべきではない。救おうとすれば失う。これは肉体のいのちも同じ。癒しがしばしば神を賛美し、神の臨在に満たされて、自己を忘れた時になされることは実に興味深いことである。

かくして、霊と魂がちょうどトーラスのメリディアンとロンジチュードのように互いにキレイに絡むとき、私たちの霊と魂の場はエネルギーの流れの美しいトーラスを形成する。この時、神の声を明確に聞く(受信)ことができる。魂は霊に服し、霊の領域の情報を受信する。決して身体の五感によって影響される魂が主役ではない。イエスはこのように霊が主役であり、魂と肉体は霊に服している生き方を体現されたのだ。そしてそのような人間が何をなし得るかのデモンストレーションをされた。霊の領域のサブスタンスをこの物理的時空間に現出させること。つまりフェイスのパワーを示された。

この意味で、私の本体は肉体や魂ではなく、霊であるべきなのだ。つまり私は神である。真の私である霊がアクティヴに生きるとき、そのバイブレーションがヴィヴィッドに魂に反映される。神が私たちの魂と肉体において現れるのだ。その霊の場が新創造であるエクレシア。つまりエクレシアとは人を通して現出される神と言える(注)。これが敬虔の奥義。敬虔と訳された単語はeusebeia。ただし、注意して欲しいのは、ローカルチャーチのウイットネス・リーは、神性と人性が混ざり合って(mingling)、存在論的に人が神になる、とする。すなわち、教会とは神人(God-man)であると言うのだが、人が神になれるわけがない。私たちの肉体と魂の領域と霊の領域には明確な一線があることをあえて指摘しておく。

美しいトーラスの追求。それはすなわち五感からの離脱。シックスセンスであるフェイスの覚醒によるのだ!

【注】エペソ1章23節は邦語訳では「教会とはキリストが満ちている」となる。口語訳では「この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない」となり、まだ原語に近い。元々はpleroma、で充満(岩波訳)と言える。つまり、教会はキリストの充満だというわけ。教会なる訳語はあまり好きではないので、言い直すと、エクレシアはキリストの充満。は!?エクレシアって何?キリストだ!あえて霊の場としたが、それは人にあって現出された神そのもの(1Tim 3:16)。神の霊のバイブレーションそのものがエクレシアなのだ。

 

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