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Category: 信仰

本日の癒しの証

驚きました。この方は先に紹介した末期ガンが癒された70代のご婦人。その後糖尿病も癒された。で、本日証をしてくださったのだが、なんともうひとつ癒しが現れていた。それは白内障。眼科で人工レンズを入れるオペを受けていたが、なかなか芳しくなかったようだ。ところがある朝起きてみると、あら、きれい!と。山々が実にきれいに見えるようになっていたのだとか・・・・。

WOW! フェイスのコツが開かれるとあとは芋づる式。勝手に癒しが起きるのだ。まことに主の十字架は完全。聖(Holiness)とは全体的健やかさ(Wholeness)なのだ。ちまちまとパーツを取っ替え引っ替えするのが現代医学。人を診るのではなく、臓器を見ている。神は人を診てくださる。この方は加えて神のみ声が実にクリアに聞くことができるようになったとも。本日も聞いたことをシェアしてくださったが、励まされた。

Something has been happening among us, Glory be to God!

引き寄せの法則

これ、ニューエイジの用語。しかし真理である。私たちの置かれているリアリティーはしばしば自分のマインドが作り出したものだ。自分はこんな努力しているのに、なんでいつもこんな目に遭うのか、あるいは貧困から這い上がれない・・・。逆に、宝くじの高額当選を何度も経験する人もいる。彼らは別に功徳を積んでいるわけでもないし、努力しているわけでもない。カネが勝手に着いてくるのだ。それはあなたのサブコンシャスが招いている。

ヨブはまことに引き寄せの法則を実証した。前にも書いたが、神が彼を試みるためにあの災難に落としたのではない。あるいは罪を裁くためとか、彼の人格を練り上げるためとか・・・。そういった宗教的なマインド自体が実はヨブの災難を招き寄せるのだ。神は彼をあらゆる面で富ませていた。ところがヨブの側にすでにフェイスの穴が開いていたのだ。神はサタンを制限して、むしろ彼を守ったのだ。なぜ神はヨブの災難を許したのか、と人はよく問う。それは神の問題ではない。ヨブが信じた通りになったのだ。

わたしの恐れるものが、わたしに臨み、わたしの恐れおののくものが、わが身に及ぶ。-Job 3:25

今回、現在厳しい状況にある方のBlogを読んでショックを受けた。子供さんが深刻な病にあるのだが、ご本人が言うに、すでに数年前にその子を失うかもしれないと不安を覚えていたが、自分は主に捧げていたと・・・。しかもそれを書いてしまっている!病状とか状況を事細かに書いてしまっている!これでは恐れや今の事態を定着してしまうだけだ。語り出された言葉にはそのとおりの事態を生むパワーがある。アブラハムがヨセフを失ったと思った時のことばを引いているのだが、御言葉を完全に誤解しておられる。今の事態は神の御心であるかのようなニュアンスであるが、これはトリック。これではフェイスを使いようもない。このままだと、癒されないのは信仰がないというのか!のモードに陥る。

繰り返すが、フェイスは条件ではない。フェイスは願うことのサブスタンス、実体(Heb 11:1)。つまり癒しそのものなのだ。その方の文章からはすでに失うことを既定路線としてしまっている。まことに引き寄せの法則のトラップにはまっておられるのだが、本人は多分気がついていない。私の知り合いが何気にアドバイスしたところ、拒絶されてしまったと言っていた。この業界では名のある人だからプライドもあるだろう。完全にマインドが作り出したマトリックスの世界に幽閉されているのだ。これでは聖霊も働く余地がなくなる。事態を飾ることと心の取り繕いが先行しているからだ・・・。人間的にはまことに同情を禁じ得ないが、真理に覚醒してほしい。真の悔い改め、すなわちマインドの転機が必要なのだ・・・。

追記:恐れ、FEARとはFalse Expectation Appears Realだ。フェイスと恐れは互いに背反する。だからイエスは口を酸っぱくして「恐るな!」といった。恐る者には愛が全うされていない。恐れには懲罰が伴うとヨハネも言っている。

四つの封印は解かれつつある

世界の物流が停止している様相が見えるとのこの記事はちょっと要注意。

すると、わたしは四つの生き物の間から出て来ると思われる声が、こう言うのを聞いた、「小麦一ますは一デナリ。大麦三ますも一デナリ。オリブ油とぶどう酒とを、そこなうな」。-Rev 6:6

デナリは一日の給金。世界は動乱の年、経済はクラッシュ。まことにスーパーナチュラルなモードでないと生きることはできない。キリスト教などに留まっているととんだ目に遭いかねない!

Acceleration

唐沢治

と題するメッセをJoel Osteenがしている。なんと彼もアモスを引いている。まことにシンクロニシティー。今回、私のメッセでもアモス9章を語った。

主は言われる、「見よ、このような時が来る。その時には、耕す者は刈る者に相継ぎ、ぶどうを踏む者は種まく者に相継ぐ。もろもろの山にはうまい酒がしたたり、もろもろの丘は溶けて流れる。わたしはわが民イスラエルの幸福をもとに返す。彼らは荒れた町々を建てて住み、ぶどう畑を作ってその酒を飲み、園を作ってその実を食べる。わたしは彼らをその地に植えつける。彼らはわたしが与えた地から再び抜きとられることはない」とあなたの神、主は言われる。-Amos 9:13-15

この「相継ぐ」と訳された単語は"nagash"、KJVでは"overtake"と訳されている。つまり耕す者が刈る者に置き換えられるということ。マルコ4章(Mark 4:26-29)の神の国の喩えでも、私たちは収穫まで忍耐強く待つ必要がある、とマインドに刷り込まれている。ノー!マルコではday and night。それは単数形。つまり24時間。神は何億年もかけて人間を造ったわけではない。24時間である!フェイスはただちに結果を生む。主がなされた癒しのわざの場面をフォローしてみてほしい。ただちにとか、たちまちとか、すぐにとか、その時にとか、となっている。

フェイスには時間のスケールはない!それは永遠のNOW!われわれのフェイスは時間に束縛されていない。それは永遠のNOWをこの物理的時空間に、今、ここで、現出させるのだ。キリスト教なる宗教の観念を捨てよ!喩えて言えば、あなたが、今、ここで、宝くじの1等当選券を持っていたらどうだろう。あなたは歯を食いしばって1億円を手にするのを忍耐して待つだろうか?あるいは結核に罹ったものの、抗生物質を手にしている自分を考えてみよ。症状の推移によって、焦ったり、絶望したりするだろうか。ノー!当選券を眺めては喜び、抗生物質を見ては余裕をもって、自分の体調を管理できるであろう。

フェイスは願っているもののサブスタンス(Heb 11:1a)。それを得れば、喜びと解放を覚え、もがきや歯を食いしばるとか、忍耐を持って我慢するとか、そのような自分のtoilingからは解かれるのだ。私たちがなすべきは-フェイスは行いによって完成されること、つまり行いのないフェイスは死んでいることを忘れないこと!-当選券を引き換えること、抗生物質を毒かもとか疑わずに服用することだ。それが見ていいないものの立証である(Heb 11:1b)。まことに真理はあなたを自由にする。

ブレークスルー

TODAY'S CELEBRATION 【Jan 24, 2016】

UPしました。

-Kingdom Fellowship Podcast

タイトル突き抜けるフェイス

聖書箇所:創世記1:28;マルコ2:4-12など

1月31日のセレブ

 ・場所:エスカル会館2F会議室
 ・時間:1300-1700

WebKingdom Fellowship

YouTubeDr.Luke's KF_Channel

セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。

全国有名書店で発売中

AMAZON部門2位、楽天部門1位をGET

イエスの誕生と死、そして復活が意味するものは何か?最初の人類アダムとエバの“失楽園”、ノアの箱舟、モーセによるエジプト脱出・・・数々の映画のテーマにもなる聖書の奇跡とイエスの生涯に新しい光をあてる。それらは現代人のわれわれとどんな関係があるのか?神は今もなお生きて働かれるのか?それを経験する鍵は?人類のロングセラー「聖書」の世界をよりあざやかにリアルなものとする挑戦的な書。

●11月に一般の100書店に配本され、2月に別の100書店に配本されます(⇒書店リスト)。また紀伊国屋では1年間常備されます。書店に直接注文していただけますと在庫を増やしてくれますので、よろしくです。こちらの注文表をお持ちください。なお、銀座教文館、ことば社、バイブルハウス青山などもいれているようです。

本日のWOWな証

ご婦人Aさんの義姉にあたる方が認知症で特養にはいっていた。家族の顔も名前もわからず、歩行も不可能になり、車椅子生活を送っていた。Aさんとは人間関 係が縺れていたが、ヨブが友人を赦し、祝福を祈ったことを思い出し、相手のために祝福を祈れと神から語られ、とにかく諸々の感情はおいて、その方のために 祝福を祈っていた。そんなに真剣に祈ったわけでもないが、御言葉に単純に従った。

で、最近特養を訪ねると、なんとその方が車椅子から立ち上がり歩いていた。しかもAさんの顔も名前も分かり、不義理をしていたことをごめんなさいね、とA さんに謝ったのだ。しかも、しかも、その方は特養の他の入所者のお世話までも始めたのだ! はぁ? それを聞いた私の反応、アンビリバボー! が、これが 語り出された神の言葉のパワー。聖霊のバイブレーションに共鳴した私たちの霊から語り出された言葉にはこのようなパワーがある。それは神のデゥナミス (力)を解放するからだ。

神の語り出された言葉(レーマ)には不可能なことはない。ルカ福音書1:37(原語)

Glory be to God!

CM:『神の新創造-聖書に啓示された自然法則を超えるマインドのパワー』第二回全国書店配本

「愛故に、三位一体の神の子なるキリストを十字架上に与えられ、復活によって人類を、原罪によって生じたこの世の、悲劇の現実から救われる、映画のような、神の意図の鮮やかな写実的な表現」-星薬科大学大学院名誉教授薬学博士仲嶋正一先生御推薦文

(仲嶋先生は同大学助手であった家内の恩師、私の先輩でもあられる。かつて先生のご著書『み神を慕いて』(文芸社)に不詳小生も推薦文を書かせていただいた。)

11月に一般の有名100店舗に配本された本書。Amazonでは部門2位、楽天では部門1位をゲットしました。そしてまた2月に別の100店舗に配本されます。紀伊国屋では1年間常備されます。その他、銀座教文館、ことば社、バイブルハウス青山などにも置いてあるようです。

聖書を五感によって、オツムで理解することはもともと無理なこと。それは最初から終わりまでスーパーナチュラル。ブレインを超えた世界。鍵はSpirit(霊)で受信すること。霊の共鳴こそがフェイス。スーパーナチュラルを経験する鍵はフェイス。フェイスの覚醒こそが終わりの時代のマスト。あれこれ理屈を捏ねくり回す神学オツムから生まれた一般のキリスト教書とは一線を画し、異彩を放ちます。

サイエンスを突き抜けた世界にようこそ!⇒ 書店リスト

バイオレントなフェイスの覚醒

よくニューエイジ系では"mind over matter"という。物質を精神でコントロールできるというわけ。確かにアダムに対する神の当初の委託は

神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。-Gen 1:28

この「地を従わせよ」の原語はStrongによると

kâbash
kaw-bash'
A primitive root; to tread down; hence negatively to disregard; positively to conquer, subjugate, violate: - bring into bondage, force, keep under, subdue, bring into subjection.

と、かなり強い意味がある。力づく的な要素もあるのだ。で、地(ertz)を征服せよ、服従させよ、束縛せよ、足下に置け・・・など。これってどういうこと?地面を従わせる?はあ?「地」の意味はかなり広範であり、Strongによれば、地面の他に国々、道路、荒地、そして世界の意味がある。イエスは言われた、御心が天になるとおり、地にもなるように祈れと。そして神の国は激しく襲われているとも(Matt 11:12)。KJVでは"suffer violence",暴力的なのだ。まことに創世記の命令と対応する。

マルコで足萎えを家の屋根をぶち抜いてイエスの赦しと癒しを受ける行為などまさにバイオレント(Mark 2:4)。盲人の目につばでこねた泥塗りたくり、目も空いてないままにシロアムの池に行って洗えと命じたイエス。メッセでも語ったがシロアムの池は急階段を降りるのだ。はあ、主よ、なんと過酷な要求をされますか?と私たちのマインドは考える。これなどもまさにバイオレント。あるいは異邦の女が娘の癒しを求めた際、犬に与えるパンはないと言われたイエス。現在のキリスト教のなよなよした自己憐憫的な光景とはまったく相反する。イエスは実にバイオレントかつダイナミックだったのだ。

地を従わせよ!この命令は実にバイオレントかつダイナミックな命令であり、天を裂いて地に介入されたイエスの行為を見れば、いわゆる「きよく・ただしく・まずしく・うつくしく」といったキリスト教のイメージとは全く異なることが分かる。ツタの絡まるチャペルで乙女が祈りを捧げる・・・といったお上品なものではないのだ。天のサブスタンスをそのまんま地にもたらすこと。それはきわめて力づくの行為。もちろん肉のものではないが・・・。神の国のパワー、すなわちデゥナミスはダイナマイトの語源。それは炸裂、さらには爆発するのだ!ぶち抜くパワーだ。覚醒せよ、このデュナミスに!罪、病、欠乏、絶望、束縛・・・これらのおよそ天に相応しくないものを爆破するのだ。そして天の要素、義、健康、豊かさ、希望、解放・・・をもたらすこと。これが福音の力(Rom 1:16)。それはまことに

地を従わせよ!

のNOWiseである。"mind over matter"ではなく、"spirit over matter"である。

フェイス-物質と霊の相互作用

かつてユリゲラーなどの超能力が話題になった。金属は力を入れずに曲がったり切れたりはしない、と私たちのマインドは思っている。根拠は常識、経験、サイエンス? が、それはマインドが作り出したマトリックス。一時脚光を浴びた清田益章氏(すでにクンではない、オッサンだ)、彼は言う(要旨のみ)-

だれもの心に「思い」が浮かぶがそれは泡のようにすぐに消える点のようなもの。「想い」は相手がいて、点と点を結ぶ線となる。さらに「願い」になるとこれが面を構成しアクションを起こす。そして「念」は今の心、さらに「祈り」へと発展する・・・。未来は「未だ来らず」の世界、人は今にしか生きられない。自分がスプーンを曲げる時、5分後のスプーンが切れた状況が心にありありと浮かび、実に豊かな世界を作る。その5分後の今を、この今に展開させるとスプーンは切れる・・・。

まさにフェイスの証。ヘブル11章1節のフェイスには定冠詞はない(Heb 11:1)。つまりクリスチャンのフェイスに限らないのだ。人は神の形に造られ、地を治めよ、と権威を委託された存在。地とはこの五感で感知する物理的世界だ。サイエンスによって幾分かは成就していると言えるが、逆にそのサイエンスのマトリックスに閉じ込められているのが現代人。よって清田氏の現象もインチキと見たくなる。が、アダムが得ていたパワーはどれほどのものか。堕罪の結果、そのパワーは潜在化した。たまたま清田氏のようにそれが顕現するといわゆる超能力となる。それは、実は、決して「超」能力では、そもそもないのだ。アダムにとってはごく普通の能力だった・・・。

物理的時空間において五感の世界で聖書を読むと、きよく・ただしく・まずしく・うつくしく・・・のキリスト教という宗教体系が出来上がる。それは人のマインドが構成するマトリックス。その中で散々苦労するクルシチャンたちがほとんどの現状。キリストはアダムが失ったものをすべてゲットバックされた。血によりその代価を完全に支払われた。否、アダムの原状復帰にとどまらず、彼が取り損なったいのちの木の実として、彼が神に至るにはわずかに足りない要素を埋めた。われわれの霊は神から生まれた存在。それは神性を帯びている(2Pet 1:4)。私たちは神の性質をシェアする存在。神は肉をとおしてそれを現される(1Tim 3:16)。肉から生まれた私たちが神になるのではない。神性を有する霊が新しく誕生するのだ。霊から生まれるものは霊である。私たち自身がキリストにならいて的生き方をしたところで、それは文字通りの猿真似。キリストご自身が生きるのだ(Gal 2:20)。しかし肉にあって生きている私もいる。それは御子のフェイスによって生きる。これがガラテヤ2:20の説くところ。

イエスは人としてすべてのことをなされた。彼のうちにおられる父の言葉を語り、父のわざをなした。彼は自分からは何一つしていない。つまり彼のわざはすべて父なる神のわざ。これと同じ霊的メカニズムが私たちにも働く。新しい生命体とされた私たちはキリストと同じアイデンティティー、ポジション、アビリティ、インヘリタンスを有している。そのほとんどが現在は潜在化していしまっている。キリスト教なる宗教のマトリックスや自分の身体や生活の思い煩いなどによって窒息させられているのだ(Matt 13:6-8)。ゆえに覚醒せよ! すでに得ているものに気づけ! それを使え! 清田氏も自分の中に埋もれているパワーに気がついたのだ。別にクリスチャンがスプーン曲げができるようになれと言うのではない。それは清田氏も言っているとおり、単なる趣味。

霊的領域のサブスタンスを見よ。見たものはゲットできる。それは霊から生まれるフェイスによるのだ! フェイスはすでになされている事柄をNOWizeする。これ私の造語だが、現在化だ。永遠の現在化。かつて『真理はあなたを自由にする』において、フェイスとは永遠の世界の霊的逆算I AMの実体化であると書いた。その現れをわれわれは経験する!

フェイスはI write....

What do you do? と問われたら、あなたはどう答えますか? I write. と答えたら、どう訳しますか? これがフェイス! 詳細は次回のメッセにて。

 

フェイス-ふたつの領域を行き来すること

イエスは言われた、羊は門であるわたしを通して出入りする、と(John 10:7-9)。どこと、どこを? 前にも指摘したが、私たちはこの世の者ではない(John 17:14)。物理的時空間において、自然法則により支配されている存在ではない! 確かに私たちの血肉はその法則に縛られている。が、私たちの本質は肉体すなわち物質ではない。霊である。神から生まれるものは霊である(John 3:6)。私たちは新しく生まれた生命体。つまりニュー・クリーチャー(Gal 6:15)。新生命体。その生息場所は霊的領域である。私たちはキリストともに天に座している(Eph 2:6)。血肉は天に入ることはできない(1Cor 15:50)。Are you with me? 私たちがこの物理的肉体の五感によって感知できる領域にのみとどまるのであれば、それは天の領域に生きることではない。それは肉にすぎない。

私たちはこれまでの経験によって物理的時空間の法則を、たとえ物理法則の難解な数式を知らずとも、感覚的に知っている。私たちが二足歩行をするための微分方程式はどれほどに複雑なものとなるであろうか。しかしだれもが何気に歩く。これが肉体のいのちの能力である。同じように、霊的領域において複雑な真理は知らずとも、霊が経験的にその領域の法則を理解する。それはフェイスの法則(Rom 3:27)。いのちの御霊の法則である(Rom 8:1-3)。その領域のリアリティー、サブスタンスをこの五感の領域に現出させること、これがフェイス(Heb 11:1-3)。

そのためには語ること。預言の霊は預言者に服する(1Cor 14:32)。それはイエスの証(Rev 19:10)。預言とは神のことばを預かって語り出すこと。イエスも自分が語る言葉は御父のことばであると言われた(John 14:24)。彼は預言したのだ。今、私たちのうちに住まわれる御霊はイエスのことばを受けて、私たちに伝達する(John 16:13-14)。それは霊的バイブレーションとして私たちの霊に共鳴する。そのバイブレーションを語り出すのだ。自分のオツムの何かを語っても何も起きない。いわゆる聖書をアナウンサーが朗読することは何もわざを証しない。今、ここで、神の霊的波動を受けること。そして語り出すこと。これがまことの預言。この時、次の言葉が成就する。

このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。-Isa 55:11

この「言葉」はdabar。メッセでも語ったが、へブル語のdabarはmatter、実質、実体という意味だ。箴言に

事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。-Prov 25:2

とある「事」もdabar、すなわち言葉だ。神の言葉は隠されている。神の国はだれかれに明らかにされることはない。探した者、そして見出した者がその実質、サブスタンスに与ることできる。神の国はミステリー、奥義なのだ(Matt 13:11)。私たちのうちにすでに到来している神の国の実質、dabarを探り、それを見出すこと。これがサブスタンスを掴むこと。信じることとはまさにサブスタンスをゲットすることだ。そして信じたら語る(2Cor 4:13)。語れば、それはなるのだ! 神は私たちの唇の実を創造される(Isa 57:19)。かくしてそれは天になるとおり、地にもなる。神の国は地に降りてくる。究極にはエクレシアの完成である新エルサレムは地上に下るのだ!

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