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Category: 信仰

統治せよ!

再建主義の富井氏が私と同じようなことを言っている。

-われわれに与えられている素晴らしい力

わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。-John 14:11-14

言葉(dabar)はサブスタンス。実体であり、権利証書であり、土台である。内なる神の言葉を語り出すとき、それは必ず言い送ったことを成し遂げ、無益に帰ることはない(Isa 55:11)。日本語で聖書を読むとこれらの真理がすべてかき消されてしまうのだ。

主に不可能なことがあろうか。-Gen 18:14

「こと」とはdabar。言葉と同義。へブル語では言葉は実体であり、マターであり、実質なのだ。日本国憲法のような虚しい言葉の寄せ集めとは違う。憲法がうんたらかんたらは、言葉遊びに過ぎない。われわれが扱うのは言葉、dabarだ。それはサブスタンス。軽く扱ってはならない。

地を従わせよ!統治、dominionを、今、ここに、現出させること。これがわれわれの信仰だ。

神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。-1John 5:4-5

 

CERNと霊的世界

いなごは、底なしの淵の使いを王としていただいている。その名は、ヘブライ語でアバドンといい、ギリシア語の名はアポリオンという。-Rev 9:11

あのホーキングが宇宙の崩壊のリスクがあると警鐘を鳴らしているCERNの実験が9月に行われる。神の粒子が質量を生み出し、これによって宇宙が保たれているとされる。もちろん真理は、万物を支えているのはイエスの言葉(レーマ)なのだが・・・(Heb 1:3)。

そのCERNの所在はSaint Jenis Puilly、かつてはAppolliacumと呼ばれていたそうだ。その意味は地への出入り口、つまりポータル。CERNの実験が地獄へのポータル、つまりAbyssを開くと欧米のクリスチャンたちは懸念しているわけだ。そのロゴもなるほど666を連想させるわけ。さらにはWWW、つまりインターネットの基礎を作ったのもCERNだ。WWWもヘブル語アルファベットにすると666だとか・・・。

そのCERNにはヒンドゥー教のシバ神が据えられている。研究者たちはヒンドゥーダンスによってCERNの偉業を賛えているそうだ。自分たちは宗教などの幼稚なものに縛られていないとするプライドの裏返しがこのような茶化しになっているのだろうが、霊的にはその霊の影響下に置かれてしまっている。霊的世界ではおちゃらかしとか、揶揄などは決してしてはならない。悪霊のポータルを開け、彼らに正当な権利を与えてしまうからだ。しばしば、知性の高い人が霊に侵食されることがあるが、彼らは霊の世界を甘く見ている。

極私的にはこの実験が霊的世界の事象をそのまま物理的時空間にもたらすとは思っていないが、霊の世界を弄んでいる感じに対してはきわめて危険性を覚える次第。現代のバベルの塔とも言われているが、神の権威に対する挑戦であることは否めないであろう。

 

生と死の狭間

昨日、親戚筋の葬儀があった。今年に入って二件目。家族葬だったが、人形作家の与勇輝氏も来てくださった。仏教式で延々とお経が響く中、改めて生と死の狭間を考えたところだ。数日前までは意識朦朧としつつも生きていた。が、今や蝋人形のように横たわっている。この境目って、どこにあるのだろうか?

元々肉体は物質に過ぎない。が、この物質を用いて「私」が生きている。神の意志を表現するのもこの物質。霊と物質の間に魂が介在し、霊の感覚を言語化し、それを表現する。大脳は特に魂とシンクロして機能する。大脳のどこに、どのようにして「私」が存在しているのか。ペンローズなどはニューロンの中の微小管における量子力学的現象としている。すると自由意思なども量子力学的ゆらぎによることになる。つまり偶然的なもの。

現在、カオスの理論によると偶然と必然を区別することはできないのだ。これは前に再建主義者との対話でも指摘した。いわゆるカルバン主義とアルミニウス主義の対立がナンセンスであると。極私的には、魂あるいは意識の問題は物理的時空間の現象としては解明されないと確信している。それは霊的領域と物理的時空間の狭間に存在するからだ。サイエンスは未だに五感によって把握される世界のモデル構築に過ぎない。神や霊の存在を否定も肯定もしていない。意識はようやくサイエンスの対象となり始めた。が、サイエンスが五感を頼りとする限り意識を意識が理解することはできないだろう。鍵はやはり聖書にあるのだ。

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる魂となった。-Gen 2:7

この命は複数形。つまり土から肉体を粘土をこねるように構成し、命の息(neshâmâh:霊)を吹き込むと、肉体と霊との相互作用により魂が生じたのだ。魂は霊と物質の狭間に生きている、特にマインドは霊と物理的時空間の接点だ。結局、人は体の命(bios)、魂の命(nephesh)、霊の命(neshâmâh)を持つ存在とされた。私はこの霊と魂は「場」を構成していると考えている。素粒子もそれぞれの「場」の振動あるいは波動として定義されるが、霊と魂も「場」を有していて、その波動がわれわれの実際的に経験する霊と魂の現象であろうと。これがいわゆるオーラを発する源だ。イエスもしばしば霊によって人々のマインドを読み取った。「場」が見えるのである。霊の見極めの賜物も同じ。

特に霊の「場」の事象を把握して言葉(レーマ)として発する時、その「場」はこの物理的時空間に実体化される。これはニューエイジも「思考物質化の法則」として知っている。繰り返すがヘブル11章の信仰には定冠詞がなく、その定義はクリスチャン信仰だけではなく、一般的な法則なのだ。われわれは十字架の贖いの上にあって聖霊の導きにより信仰を使う。正確には信仰の法則と言ったほうが良いかもしれない(Rom 3:27)。このコツが開かれると、いずれ死者も生きることを見るであろう。なぜ?イエスがそう命じられたからだ。

病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。-Matt 10:8

これは十二弟子限定というむきがあるが、マタイの最後にはこうある:

イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」-Matt 28:18-20

ここの「守る」も日本語で理解してはならない。いわゆる校則を守るとか、道路標識を守るの意味だけではない。Strongによれば、逃れることがないように見張ること、とある。つまりイエスの命じたことをすべて取りこぼすなという意味なのだ。Are U with me? われわれのマインドがトランスフォーメーションされて、イエスのマインドが完全に私の魂の「場」に現れるようになれば、死者は生き返る。いわゆるキリスト教が絶滅危惧種となりつつあるのは、デュナミスの現れが欠如しているからだ。改めて

神の国は言葉(ロゴス)にではなく、力(デュナミス)のうちにある。-1Cor 4:20

 

信仰と信頼

下のコメントでちょっと触れましたが、改めて。

さて、信仰とは望んでいる事柄の実体であり、目で見ていないことの立証である。-Heb 11:1

信仰はサブスタンスを得ること、そしてそれを立証すること。それは霊の働きによる。「信仰を使え」なるコピーに違和感を覚えるむきもあるようだが、「霊を使え」と言ってもよいだろう。とにかく、信仰は「得た」と分かる。つまり現在完了形。しかし信頼は必ずしもそうではない。つまり信仰あればもちろん信頼も生まれるが、逆は必ずしも言えないのだ。信仰はすでに得ていることだから。だから、スプーン曲げの清田君もそれを知っている。ヘブル書の定義には定冠詞がないのだ。かくして、改めて言えば、真理は日本語で考えてはならない。

信仰はアイデンティティーから生まれる

信仰は永遠の現在の領域、つまり物理的時空間を超える領域のサブスタンスを、物理的時空間における、今、ここに、現出させることだ。なぜなら、神はアイ・アム(I AM)。神の国はNOW AND HERE。私たちは時間と空間を超える存在。なぜ?キリストとともに天の座(Eph 2:6)いるからだ。天は時間と空間を超えている!その座から、キリストのマインド(1Cor 2:16)によってこの物理的時空間を見るとき、すべては終わっていることが分かる。

DO YOU BELIEVE THIS? 

 

時空間を超える信仰の領域を味わう

今朝の走りはサイコー。今が走りには一番イイ季節だwink

さて、聖書の真理は物理的時空間を超える。昨日の記事で、もしDr.Lukeが逝ってしまったと言うむきがあれば、そもそも聖書が逝っているのだ。

天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。・・・秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。-Eph 1:4-10

ここには時空間を超えた世界と、時空間の中での出来事が啓示されている。Are U with me? クリスチャンが自分の気分や環境などの地的な事象で振り回されるのは、このふたつの世界の違いが理解できていないからだ。すでにすべては完成している。

あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた。-Ps 139:16

ここの「からだ」と訳された単語は"golem"、英語では"substance, yet being unperfect"。つまり「胎児」とするわけ。だが、文脈から見ると、体に限らないことが分かる。私の本質、私の人生、私のすべてが、ことごとく神の書に書かれている。それは神の信仰、すなわちサブスタンスなのだ。これが物理的時空間において時系列的に現出する。ゆえにイエスは「神信仰を持て」と言われた(Mark 11:22)。神は永遠のはじめ(John 1:1)、つまり物理的時空間がまだ造られる前から、私たちをキリストにあって愛により選び、そのすべてを見透されたのだ。私たちの人生とは神の信仰の立証と言える。

信仰とは望んでいる事柄の実体(サブスタンス)であり、見ていない事の立証である。-私訳、Heb 11:1

ウォッチマン・ニーはこれを「霊的に得ること」と「実際的に経験すること」と言っていることは前にも紹介した。霊的サブスタンスを掴むならば、時系列の中でそれが現出するのだ。

私たちがキリストとともに十字架で死んで、キリストとともに復活した。これって、物理的時空間を超えた経験であろう?なんで二千年前に私がいるわけ?昨日の記事に違和感を覚えた人は、この真理を経験することはできない。われわれクリスチャンは物理的時空間を超えた存在だから。自分のマインドを"神"とする人々には決して味わえない祝福があるのだ。これが「秘められた計画」だ。だからパウロはこう奨励している。

どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、理解(原語)の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。-Eph 1:17-19

追記:このメッセージはグッド。信仰はNOW。すでに十字架で成就している真理をNOWとすること。

-God's Power Rests on Truth

FAITHを使え!

水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。それからピリポはアゾトに現われ、すべての町々を通って福音を宣べ伝え、カイザリヤに行った。-Acts 8:39-40

ピリポはトランスポートされた。これは新約の時代の証言だ。そしてこの現象は今も起きている。

-Instant Transport to China

私たちの信仰は時間と空間を超える。そもそも束縛されていない。私たちの祈りが天に抜けるとき、そこは時間を空間を超えた処。ゆえに弟子たちやダビデやソロモンとすら交わることができる。HOW? もちろん、霊によって、だ。私が12月に見たあの場も霊の領域だ。しかし明確に視覚野に印象が残っている。最初は幻覚なのか、何なのか、かなり戸惑ったことは事実。しかし、古の預言者たちも、新約の聖徒たちも、みな幻を見るときは同じように困惑し、戸惑ったのだ。なぜ?それはスーパーナチュラルだから、私たちはキリスト教の信者ではない。キリストを信じているのだ。すなわちスーパーナチュラルな存在。

天の領域におけるサブスタンスを見て、それに触れるとき、私たちはこの物理的時空間を超えた世界にいる。これがアセンディングだ。そしてそのサブスタンスを地上に現出させること、これが信仰であり、ディセンディング。天は裂かれているが、われわれのマインドが裂かれていない。だからこの天の領域に突き抜けることがほとんどの人の場合、できていない。よって祈りも地上でのあれこれの問題を何とかしてください~と、地上でぐるぐる周りするだけになる。自分のアイデンティティーと居場所を知るべきなのだ。われわれは新創造であり、天にキリストとともに座している!そこは物理的時空間を超える世界。もっとつまづくであろうことを語ると、物理的身体を持って時間を遡る証言もあるのだ!HOW? エノクは信仰によって死を見ることなく天に引き上げられた。そう、信仰によって。イエスは言われたであろう:

信じる者には何でもできる。-Mark 9:23

FAITHを使うとき、すべては可能。これは私が言っているのではない。イエスである。よく聖書をそのまま信じるのは狂信であり、聖書原理主義カルトだとするむきがある。彼らは自分の本性を証明してしまっている。聖書を信じていないのだ!自分のマインドを"神"にして、聖書の力も神の力も知らない者たち。よって土俵が異なるゆえに相手にするまでもない。自分の神に対する不信仰を顕にしているだけだから。聖書は神ご自身の言葉。レーマである。神は語っている、今も。遠藤周作の『沈黙』などは偽りである。問題は私たちどの霊的周波数にチューニングするかにかかっているのだ。終わりの時代、次の預言の成就を見るであろう。

そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。
わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。
血と火と立ちこめる煙が、それだ。
主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』-Acts 2:16-21

追記:・・・と書いていると、Dr.Lukeはいよいよだと思われることは重々承知cool

言葉はマターである

 事を隠すのは神の誉であり、事を窮めるのは王の誉である。-Prov 25:2

この邦訳はまったく見当外れだ。私は常々言っている、日本語で真理を理解しようとするな、と。KJVではこうある:

It is the glory of God to conceal a thing: but the honour of kings is to search out a matter.

神はthingを隠し、王はmatterを見出す。共に、昨日のメッセでも語ったが、言葉(dâbâr)である。ヘブル語の言葉は物事であり、マター、特に語り出されたものとして。Strongではこうある:

daw-bawr'

From H1696; a word; by implication a matter (as spoken of) of thing

言葉は実質・本質・形質そのもの、要するにサブスタンスだ(Heb 11:3)。だから内なる神の言葉を語り出すとき、それは物質界に影響を及ぼす。そもそもアダムが造られたとき、チリから構成された(yatzer)体に神の命(chay)の息吹(neshâmâh)が吹き込まれるとき、生きる魂(nephesh)となったのだ。 この命は複数形であり、神の息吹が肉体の命(bios)、霊の命(pneuma)、魂の命(psuche)を生み出した。つまり物理的肉体と霊が相互作用を起こして魂が生じたわけ。かくして私たちが内なる神の言葉を語るならばそれは物理的時空間に何らかの作用を及ぼす。Creative Miracleもあり得るのだ。

神はそのマターを隠される。なぜか?

あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。-Matt 13:11

それを見出すのは私たちの責任。私たちは神の国の王なのだ(1Pet 2:9;Rev 1:6)。神はマターをあえて奥義とされる。それを私たちが見出すことは、実は神にとっては喜びなのだ。求めよ、探せ、叩け、と。今回のメッセでも語ったが、鍵は言葉。特に語り出されたマターにある。これを見出した者は

天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。-Matt 13:44

天の国のマターは秘されている。やばいものを見つけてしまった。あえて隠しておいて・・・。それを見出した者はnever be the same! 一番美味しいところはこっそりと取っておくものだ。

われわれの祈りにはパワーがある

それゆえ、敵はなんとしても邪魔をしたい。この人は元魔術師、サタニストだったラミレスなどもそうだが、あちらの世界を体験的に知っている人の証言は実に参考になる。霊は明らかにわれわれのマインドに関わり、われわれのアクティビティを阻害するのだ。12月以降、あの世界を見せられてから、この霊どもの存在も実にリアルになった。

霊の侵食については昨日のメッセでも語ったが、まことに私たちの戦いは血肉が相手ではない。

わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 -Eph 6:12

赤い子牛

テンプル・インスチチュートの発表。第三神殿は半年もあればできる、すでにすべては整った・・・・。

 

TODAY'S CELEBATION 【July 12, 2015】

UPしました。

-Kingdom Fellowship Podcast

タイトル内なる神の言葉には創造の力がある

聖書箇所:ヨハネ14:10-14など

7月19日のセレブ

 ・場所:エスカル会館2F会議室
 ・時間:1300-1700
 ・Web:Kingdom Fellowship
 ・Youtube:Dr.Luke Channel

アインシュタインの悲願

 私はただ神がなぜこの宇宙を造られたかを知りたい。世間のことなどはまったく関心がない。-アインシュタイン

私の漢詩の号は一石。これはペテロ的な意味もあるわけだが、実はクリスチャンになる以前に付けたのだ。それはアイン・シュタイン、つまり「ひとつの石」だ。ダビデのゴリヤテに対する一石とか、生ける石として神の家に汲み上げられるとか、石は聖書ではかなり重要な意義を持っている。

アインシュタインはユダヤ人であるから、創造主なる神を追求していた。が、彼の手法は数学で神の創造を記述すること。つまり神に直接触れることではなかった。彼は一般相対論で重力を記述したが、電磁気力と統一することができなかった。量子力学については「神はさいころ遊びはしない」として認めなかった。

現在4つの力が知られているようだが、それを統一的に記述し得るかもとされるのが超弦理論。宇宙のもっとも基本の単位はヒモであり、その振動が素粒子であると。そこに場が生まれ、力を生じさせる。つまりは世界は波動なのだ。それによると世界は11次元、多数の平行宇宙が存在しているとも・・・。

この辺りまで来ると、ほとんどSFあるいはオカルトチックでもある。CERNではヒンドゥー教の神々が祀られていると先に紹介したビデオにあった。つまり、よく科学を知らない輩が、聖書は科学的ではないとか、科学の時代に霊とか言うのは幼稚とか言うが、最先端は逆。まさにオカルトと紙一重なのだ。あのスプーン曲げの清田君も言っていた、魚屋のオヤジが「科学的ではない」と言うのはおかしいだろって。魚の専門家であるかもだが、お前、科学知ってんのか?と。面白い。世の中こんなものだ。

神はあえて善悪を知る知識の木の実を食べて肥大化した人類の知性にチャレンジしているのだ。アインシュタインの野望や超弦理論の挑戦は破綻する。神に対する挑戦だから。神はそんなに簡単に人類の知性にサービスはしてくれない。なぜか?知性は神を知る道ではないからだ。愚かな道、十字架の道、血潮の道、これだけが神を知る道。マインドのトランスフォーメーションの必要性はこれからも分かる。

追記:本日、テンプル・インスティチュートが重大発表をする模様。第三神殿がいよいよか?

 

 

 

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