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Category: 信仰

掴む放すの法則

-ムー度満点!トーク vol8.秋山眞人

これ、実に面白い。一世を風靡した超能力者秋山氏の証言。彼らは明らかに霊的存在とコンタクトしている。すでに書いたが、魂の潜在能力を用いている。"宇宙人"とか、"未来人"とか称しているが、それは霊の実体化。御使いも通常は幽体(Ethereal Body)を有しているが、この物理的時空間に現出することがある、と聖書は数々証言している。イエスご自身も復活後に結婚があるか否かの問いに対して、私たちは御使いのようであると証している(Matt 22:30)。

で、この中で彼はこう言っている:超能力的現象が現れるときは、自分で握っていたものをふっと手放すときだ、と。それを『掴む放すの法則』と呼んでいる。面白い!私たちの信仰も同じ原則が働く。自分で握りこんでいる時には神は介入されない。が、ふと自分が手放した時、それは得られる。彼も信仰の法則を明らかに理解しているのだ。これからの時代は体と精神の二元論では理解できない時代となる、霊に対する目が開かれる必要あるとも・・・。うーん、キリスト教徒よりもよほど霊的法則を知っている。導かれる霊は異なれど、私の新著はまさにここを突いているのだ。

信とは願う事柄の実体(サブスタンス)であり、目に見えないことの立証である(私訳)。-Heb 11:1

ここの信(pisitis)には定冠詞がない。つまり一般の霊的法則として提示されている。彼はこれを掴んでいるのだ。スプーンが曲がるのは自分にとっては呼吸だと。イエスにとっても死者が蘇るのは同じことだったのだ。そしてわれわれにとってもそれが呼吸となるべきなのだ。

追記:こちらも面白い。やはりスプーン曲げの清田君。彼は言う、思いは点、想いは線、願いは面、そして念ずることは未来の状態を自分の中で築き上げること。それは信じることから始まるが、丁寧にその瞬間をイメージしてその瞬間を今ここで得ることだと。するとスプーンは折れる(30分あたりからどぞ)。さらにピリポ体験まで!?

-ムー度満点!トーク vol3.清田 益章

ちなみにこの左サイドにいる三上氏は筑波大物理学科出身、右の大塚氏(?)もサイエンティストだったようだ。清田君の主張も実に面白い。みんなができることだが、信じないからできないのだとも・・・Enjoy!

 

 

TODAY'S CELEBRATION 【July 05, 2015】

UPしました。

-Kingdom Fellowship Podcast

タイトルサタンのフェイクに欺かれるな

聖書箇所:ガラテヤ4:3;黙示録12:9など

7月12日のセレブ

 ・場所:横浜技能文化会館音楽室
 ・時間:1300-1700
 ・Web:Kingdom Fellowship
 ・Youtube:Dr.Luke Channel

イエスのわざの秘密

イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。あなたの子をここに連れて来なさい。」-Matt 17:17

イエスはつねに弟子たちの不信仰にフラストレーションを覚えていた。主よ、なんと忍耐の乏しいこと・・・と、かつての私は理解不能だった。が、実はこれは大いなる啓示なのだ。小学生が微分積分ができずとも誰も叱責はしない。でも大学生ならば・・・。Are U with me? イエスは弟子たちがご自分と同じことをできると考えていたからこそ、彼らの不信仰にイラついたのだ。

すなわち、イエスの生き様は、私たちの模範。もし彼が神としてわざをなしていたら、われわれとは何ら関係ない。単にイエスは自分のパワーをひけらかしただけだ。しかし、もし神としての証をされるのが目的であれば、神はみ口の一息でサタンを抹殺できる。よく善なる神と悪なるサタンの死闘とか言われるが、それは違う。勝敗はついている。サタンは被造物にすぎないのだ。

が、神はご自身で手を下すのではなく、あくまでも人間に任せた。ゆえにあえて人になって、人としてわざをなされ、サタンにも勝利された。それは私たちの生き方のモデルとして!イエスはあくまでも人としてあの数々のわざをなされたのだ!ゆえに私たちにも同じこと、さらに大いなるわざができる(John 14:12)。条件はすでに満たされている。イエスは御父の元におられるのだ!まことに

つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。-Acts 10:38

まことにスーパーナチュラルなポータルは開かれている!・・・ようやく最終原稿がまとまり、あす出版社に送付する。信仰の有無にかかわらず、面白いと、自分で読んでいて思っている次第。私ならばためらわずに買うであろうcool

 

永遠が時間に切り込む瞬間

これが信仰。天(霊的領域)のサブスタンスは永遠の現在のもの。時間の流れや空間の制限を一切受けない。それは普遍かつ不変。これが真理。対して地(物理的時空間)の事実は時間と空間の中で転変する。信仰が働くことは天のサブスタンスをこの地に引き下ろすこと。つまり永遠の現在に存在する真理が、有限な時間に切り込むのだ。神が天を裂かれて肉体をもって現出されたように、信仰は時間を裂き、天のサブスタンスを空間に現出させる。それゆえ、信じる者はなんでもできる、のだ。

 

"As"の絶大な意義

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。-John 15:9

イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。-John 20:21

ここの「ように」は"kathos"、Thayerによると

Thayer Definition:
1) according as
 1a) just as, even as
 1b) in proportion as, in the degree that

父がイエスを愛したと同じ程度に、また父がイエスをつかわされたと同じ程度に、イエスは私たちを愛し、私たちをつかわすのだ。これ、マジで受けるとやばい。つまり父との子の関係がそのままイエスと私たちの関係に平行移動しているわけ。イエスは自分からは何もできず、父の言葉を語り、父のわざをなした、と証した。それにより弟子たちが驚き、またイエスのアイデンティティーを示すためであった。

私たちはどうか。聖霊が来られるとき、イエスのものを受けて、イエスの言葉を語り、イエスを証すると言われる。そのイエスは父から受けているのだ(John 14:15-26)。つまり私たちのうちでイエスが語り、またなすわざを私たちも行うのだ。ゆえに、私たちはイエスと同じ業を行い、さらにそれ以上のことをなす。なぜ?イエスが父の元に行くからだ(John 14:12)。イエスはダイレクトに父から受けて、聖霊により私たちに伝達する。

「ように」-この単語の意味は絶大である。

 

天のしるし-木星と金星の邂逅

6月30日、天のしるしがまたひとつ。イエスが生まれた時に3人の博士を導いた星の配置が再現された。金星はきわめて強い光を、木星は正義を意味する。

-Convergence of Jupiter and Venus on 6.30.15: The Return of the Bethlehem Star!

 

神とマインドの場を共有する

「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。-1Cor 2:16

私たちのマインドの場(フィールド)がある広がりを有していることを書いた。いわゆる気配とか殺気、あるいは分裂病者のプレコックス感などはこの場が影響するためだ。ちょうど磁石の周りに砂鉄を置くと見ることができる磁場と同様に、私たちのマインドは場を形成している。初対面で理由はないのに「いけ好かない」と感じたり、逆に何年も知っているかのような親しみを覚えたりすることがあるが、これもその場の影響による。磁石のN極同士は反発し、NとSは引き合うように。

私たちはつねにこのような場の中に置かれ、互いに影響されたり、影響を与えたりする。かつての大日本帝国が無謀な戦争に突入した時も、この国家全体がそのような場に置かれたためだ。個人の意見は封殺され、相互監視体制、一億火の玉・・・といった社会の雰囲気が生まれる。最近もややそのような臭いを感じるところではある。敵はこうして世の中を誘導するのだ。

同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。-Gal 4:3

彼らは空中の権を持つ者と呼ばれる。

わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。-Eph 6:12

この「天」とは第三の天ではなく、第二の天である。未信者の場合、自動的にこの霊の場に置かれ、絶えずその影響下にあるのだ。しかも無意識的に。まさか自分が悪の諸霊の影響を受けているとは思いもしないだろう。こうしてサタンは全世界を欺いている(Rev 12:9)。クリスチャンであっても、神の御言葉に明け渡していない領域、自分が出張る領域は同じ状態である。特に自分のウリにする部分はまずやられている。

自分を放棄し、神に明け渡し、委ねることができた領域は、御霊の領域とされ、神の国の実際が展開する領域となる。それは神のマインドの場であり、私たちのマインドもつねに神のマインドを共有するようになる。自分のしたいことが即神の御旨となる。あえて神の御旨を問うまでもない。マインドが溶け合っているからだ。キリストのマインドがそのまま私のマインドに展開する。Bill Johnsonが面白いことを言っている:

When we submit the things of God to the mind of man, unbelief and religion are the results. When we submit the mind of man to the things of God, miracles and the renewed mind are the results.
(神の事柄を人間のマインドに委ねれば、不信仰と宗教を生む。人間のマインドを神の事柄に委ねれば、奇跡と新たにされたマインドを生む。)

そして神の究極の目的は(宗教的な人々よ、つまづくことがないように!)

God wants our minds to be renewed so that our will can be done.
(神は私たちの意思がなされるためにマインドが新たにされることを願われる。)

なぜ?メッセでも語ったが、創世記を見てみよ。

主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。-Gen 2:19

神はアダムに口出ししてはいないのだ。任せている。さらにかのサウルに対してすら神はこう言われた。

主の霊があなたに激しく降り、あなたも彼らと共に預言する状態になり、あなたは別人のようになるでしょう。
これらのしるしがあなたに降ったら、しようと思うことは何でもしなさい。神があなたと共におられるのです。・・・」
サウルがサムエルと別れて帰途についたとき、神はサウルの心を新たにされた。以上のしるしはすべてその日に起こった。-1Sam 10:6-9

ここで「心」とある単語はlabe、Strongによると"the heart; also used (figuratively) very widely for the feelings, the will and even the intellect;"。つまり感情、意志、マインドまでを含む(cf.霊の機能と魂・体の相互作用について)。ゆえに「サウルですら預言者か」と、ことわざになったほどだ。Are U with me?

結論はこうだ:神はマインドが新たにされた人には全権を委ねて下さるのだ!「何でも求めるものはかなえてあげよう」と白紙小切手を下さる。WOW! このことに抵抗を覚える人は、はっきりと言うが、宗教の霊に侵されている。聖書は宗教の書でないし、イエスはキリスト教の教祖でもない。神が天を裂いて、その霊的領域から物理的時空間に介入された証が聖書であり、イエスである。全宇宙を創造された方が、被造物の世界に介入されている、今もだ!

しるし・不思議・奇跡は新たにされた思いにとっては自然なことなのだ。宗教の霊の場に置かれている者は見ることもできないし、求めもしない。そんなことは低級なことだとかのたまって・・・。かつての私がそうだった。今後、ステージ4のガンが当たり前に癒され、むしろ癒されないことが信じられない事態になるだろう。否、すでになりつつある。神の国にガンはないし、神はガンの源でもないし、盗み、殺し、滅ぼすのはあの者の仕業。神の御旨ではない!神の御旨は癒し。私たちの魂が繁栄するほどに、あらゆる面で繁栄し、健やかであることができる(3John 1:2)。SO BE IT!!!

 

マインドの広がりの領域

私たちは体、魂、霊からなることは欧米のクリスチャニティでは常識。わがニッポンキリスト教では聖書自体が霊と魂の区別もできていないし、牧師たちも同じ状況。霊と魂の区別ができなければ、聖書を正確に理解することは不可能だ。

-人間の聖書的啓示と現代精神科学

その魂は、英語ではSoul、ギリシャ語ではPsuche、ヘブル語ではnephesh。それはいわゆる知・情・意からなる。知性は先に書いたとおり、意識の領域と無意識の領域からなるが、養老孟司氏などの唯脳論者によれば、単なる電気化学的現象であるとされる。デカルトや脳外科医のペンローズなどは大脳と別に魂の存在を指摘している。要するに魂は物理化学的現象を超えたものであるとする。これは創世記の次の記述からも明らかである。

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる魂(原語)となった。-Gen 2:7

つまり土から構成された体に霊を吹き込むことにより、そのふたつの要素の相互作用により魂が生じたのだ。物質と霊は相互作用することは癒しや奇跡の根拠でもある。この魂の機能のひとつであるマインドが信仰にとってきわめて重要であることは私の著書でも、ここでも何度も指摘している。

もしマインドが単なる物理化学的現象であれば、それは単に個人レベルの現象。そのときにはいわゆる美、徳、倫理、形而上学的価値観などを共有し得ることが説明できない。法律では、たとえば、人を殺したるものは死刑または無期もしくは何年以下の懲役に処する、と規定されているが、なぜ人を殺してはならないかは触れていない。が、私たちは理由を説明できないが、それを知っている。どうやって知るのだろうか。唯脳論者ならば、ある価値観を生み出すニューロンネットワークがすべての人間に共通の形で形成されるからだ、とか説明するのであろう。フロイトならば去勢不安を回避するために父親との同一視により超自我が分化すると説明する。

しかし私たちは魂は神の霊が吹き込まれて生じたことを知っている。つまり人の魂は堕落以前には神的な能力と価値観を元々有していた。地を従わせ、生き物を治める能力と徳を持っていた。つまり神の魂とつながり、その価値観や能力を共有していたのだ。だから人を殺してはならないと直覚的に知っている。ところが罪の結果、それは存在論的には消失していないが、機能の発揮を喪失した。よく人間は大脳の20%程度しか用いていないと言われるが、これはサバン症候群などの人を見れば明らかである。彼らの能力はどこに由来するわけ?

かくしてマインドはこの時空間においてのみ存在し、作用するのでない。いわゆる超能力などは唯脳論ではほとんど説明できないであろう。マインドがこの物理的時空間を超えた領域にまで作用し得るからこそ、超能力などもあり得るのだ*1。私が何度も繰り返しているように、マインドは霊と魂の接点である。ある種のマインドの用い方を体得すると、霊的世界にも波動を生じさせることができるようになる。これがいわゆる霊能力者とか霊媒師と言われる人々である。サウルも最期には死んだサムエルを霊媒師を介して呼び出した。これは多分に悪霊的現象であるが、霊的世界と関わっていたことは否定できない。

前にも書いたが私は人々の運命が見えることがある。理由は不明だが、分かるのだ。マインドはある種の波動のようなもので、たまたま私の大脳の近傍に集積しているが、量子力学的にはるか遠方においても存在確率はゼロではない。重力や電磁場のようにポテンシャルを有している。だからサタンは私のマインドに関わることができる。彼は私のマインドの、いわばシッポを掴むことができる。そして火の矢を打ち込んでくる。その火の矢もある種の波動のように伝播する感じを受ける。テレビ受像機で受信された電波が映像や音声をフレーム化するように、マインドに干渉してくるサタンの火の矢も、私のマインドの中に映像や声をフレーム化する。それをただちに拒絶すればよいが、しばしばそれが自分の肉に足場があると(今週のメッセも語ったが要塞)、それを自ら掴み、弄んでしまう/弄ばれるのだ。

だから私たちはマインドには十分に警戒する必要がある。特に文学系あるいは芸術系の嗜好を持つ人々は、自分のうちの病理性をその想像力の源泉としているため、その領域を十字架の癒しに手放す事を拒む。むしろ自分が病んでいることや歪んでいることをウリにする傾向がある。その病理性を共有する人々がいわゆる彼らのファンとなる。が、これはサタンにとって絶好の足場となる。彼らの想像力や作品のルーツはどこにあるのか?しばしばアーチスト系の人が悲惨な最期を遂げる理由はまさにここにあるのだ。

かくしてマインドは私の大脳を起点として、かなり広範な領域にまで広がっている。人の心が読める人はそのマインドの広がりの裾を掴むのだ。あるいは気配とか殺気とか。マインドを敵に掴まれないこと。ある種のマインドの純潔性あるいは透明性が不可欠となる。イエスは「悪魔はわたしのうちに何ももたない(=手がかりがない)」と言われた(John 14:30)。神の意志も霊に対してある種のインプレッションを与え、それがマインドにおいて映像や声や言葉としてフレーム化されることによる。マインドが自分のことや肉的要素で一杯であれば、神の波動はかき消されてしまう。かくして私たちのマインドは霊的せめぎあいの場となる。だが、敵の声か神の声か、見分けはある意味簡単。前者はマインドを苛立たせ、掻き立てるが、後者は鎮静し、平安といのちで満たしてくれる(Rom 8:6)。

マインドのトランスフォーメーションの重要性はここにもある。

*1:これについてはWatchman Neeの"The Latent Power of Soul"、あるいはJesie Pen-Lewisの"War on The Saints"、あるいはG.H.Pemberの"Earth's Earliest Aages"を参照されたい。

追記:ウォッチマン・ニーの"The Spiritual Man"から、マインドの重要性についてこちらを参照されたい。いわゆる主の御心のままにとか、御旨を待つとか、霊的受動性の危険性にも警鐘を鳴らす。われわれはマインドを積極的に用いて、神にアクセスする必要があるのだ。ニーはマインドはポンプのような役割だと言う。霊が流れるようになるまでポンプする必要があるわけ。なるほど。パウロも、霊で祈るとともに知性でも祈ろうと言っている。

-The Principle of Mind Aiding the Spirit

 

TODAY'S CELEBRATION 【Jun 28, 2015】

UPしました。

-Kingdom Fellowship Podcast

タイトル約束の良き地を取れ

聖書箇所:創世記15:18-21;ガラテヤ3:7;エペソ1:3など

7月5日のセレブ

 ・場所:エスカル会館2F会議室
 ・時間:1300-1700
 ・Web:Kingdom Fellowship
 ・Youtube:Dr.Luke Channel

要塞を破壊する-偽りの体系を捨てること

私たちのマインドは、フロイトが指摘したように、意識される領域と意識されない領域からなる。無意識の領域にはこれまでの人生で経験したすべての事柄が感情と絡んで沈み込んでいる。これを感情観念複合体、いわゆるコンプレックスと呼ぶ。実は聖書的にはさらに霊が絡むのだ。私はこれを霊感情観念複合体と称している。例えば、恨みの霊、妬みの霊、競合心の霊、自己憐憫の霊、プライドの霊、病の霊など。聖書ではこれをサタンの要塞と言う。

-信仰と精神分析について

-サタンの要塞について

私たちは霊が再生された新しい創造であるが、魂は旧い体の一部である大脳とシンクロしているため、この要塞の影響を受けている。ゆえにマインドのトランスフォーメーションが不可欠となる(Rom 12:1-2)。これは『真理はあなたを自由にする』でも述べているが、単に霊的精神的葛藤からの解放だけでなく、神の国をこの地上に現出させるためにも本質的であることが開かれた。 

肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。-Rom 8:6-7

要するに不安とか恐れや緊張感や鬱などの感情は肉のものであり、よって偽りであると知る必要がある。思い煩いからは何も生まれないことはメッセでも語った。私たちはこのような敵の放つ火の矢を霊的ミサイル防衛網によって察知し、マインドに突き刺さる前に迎撃する必要があるのだ。

またサタンは私たちの肉の弱さを熟知している故に、個人個人に対して実に的確に火の矢の種類を選んで打ち込んでくる。よって私たちは肉に埋没している要塞を発見し、これを崩壊させる必要もある。ハエを追い払っても、ハエの好きな残飯を残しておいたら無意味だ。ちなみにサタンの別名はベルゼブル、それはハエの親玉の意味だ。

その要塞、つまり霊感情観念複合体は偽りの体系であることをまず知る必要がある。御言葉に反するもの、神に敵対するものだから、ネガティブな感情を生み出すのだ。自分がいつの間にか信じ込まされている偽り、それを偽りとは感じない点が致命的なのだが、御言葉の鏡に照らす必要がある。要塞を落とすのは御言葉と祈り(2Cor 10:4-5)。

内側にいつの間にか巣食っている偽りの体系から解放されるほどに、私たちはキリストがくださったいのちを楽しむことができる。イエスはアバダントなライフをくださるために来られた(John 10:10)。そして魂が繁栄すれば、あらゆる領域で繁栄し、健やかになることができるのだ(3John 1:2)。

自分の魂を守ろうとすれば、それを失い、失えば豊かに得ることができる。十字架は新創造をつける場ではない。旧創造に属するものをつける場である。自我を十字架につけてぇ~!といったエキセントリックな教えそのものが偽りであると知る必要があろう。クルシチャンから解かれるために!

いつものBill Johnsonを紹介しておこう:

-Attaining a Renewed Mind

追記:こちらはあえてサタンの要塞を構築している。オバマの正体は明らか。全米で同性婚容認。

-オバマ氏「米にとって勝利」同性婚で連邦最高裁判決

 

あなたの信仰を使え!

イエスは答えて言われた、「神信仰を持て(原語)。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。 そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。・・・」-Mark 11:22-24

私たちはよく祈った後も頭でいろいろと心配したり、信じられなかったりすることがある。するとすぐにこう結論する、自分は不信仰だ、と。ゆえに得ることができないと思ってしまうのだ。しかしイエスが言っていることをよく読んで欲しい。彼が言うのは頭で疑うな、ではない。心で疑うな、だ。私たちの思い(マインド)は霊と魂の接点。だから敵が放つ火の矢が飛び交う戦場なのだ。そこで飛び交う想いを自分のものとして受け入れて、それを思いめぐらすと不安や恐れなどで脅かされる。それを入口で拒絶することをメッセで語った。

つまりマインドで何が展開していようが、心で信じているならばOKなのだ。私自身、自分が経験した癒しを頭では未だに信じられないのだ。が、癒しの事実は現れた。え?どうやって心で信じていることが分かるのかって?キリストの言葉(レーマ)を聞くこと。それは霊が知っている。I KNOW THAT IKNOW! 否定しようがないのだ。例えば、イエスが処女から生まれた事実をマインドではいくらでも否定できる。しかし心、もっと言えば霊の中では決して否定できない。そのサブスタンスを得ているからだ。信仰のサブスタンスは一度得られるならば、マインドの影響は受けない。「得た」と分かる。

かくして、7月、主の御手が大きく動くことを私の霊は把握してしまった。根拠は?知らない。が、分かるのだ。『スターウォーズ』では「フォースを使え」が常套句だが、われわれは「フェイスを使え」だ。

フェイスとは望む事柄のサブスタンスであり、見えない事実の立証である。-Heb 11:1

ここの「事実」は”pragma”、Thayerによると:

Thayer Definition:

1) that which has been done, a deed, an accomplished fact
2) what is done or being accomplished
  2a) spec. business, a commercial transaction
3) a matter, question, affair
  3a) spec. in a forensic sense, a matter at law, case, suit
4) that which is or exists, a thing

それは完了している事柄。今、ここに、存在しているモノ。spiritual realmにおいては厳然たる成し遂げられた事実。だからイエスは物理的には死んでいるラザロを呼び出した。イエスの内面の事実はラザロはすでに生きていたのだ。神はないものをあるものとして呼ぶ方であり、それと同じことをイエスは人間としてデモンストレーションされた。信じるならば私たちも同じことができると(John 14:12)。まことにわれわれの得ているポテンシャルはすごいものがあるのだ!

 

2015年9月に起きること

先にニュートンがダニエル書の研究から2015年9月23日を割り出していることを紹介した。またカルバリーチャペルの牧師のメッセージも紹介した。彼らは前艱難期携挙説を採るが、あすニコラス・ケイジによる『レフトビハインド』が公開となる。今回もその牧師がメッセージしている。字幕をつけてくれる人がいるのだ。

-聖書預言―2015年9月に来るべきこと

対するポストミレの富井氏はAD70年に第一回目の再臨があり、また携挙もあったと主張している。いずれにしろ時代はかなり煮詰まっているのだ。しかしこのまま聖書に無知な日本人が終末を迎えるとしたら、はたしてどんな惨状をみることになるのだろうか?主よ、この国にあわれみを!

 

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