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Category: 信仰

Soaking in the Spirit

TODAY'S CELEBRATION 【May 15, 2016】

タイトル水平から垂直へ

聖書個所:マタイ14:17-19;ヨハネ1:15;ヨハネ3:31など

5月22日のセレブ

 ・場所:エスカル会館2F会議室
 ・時間:1300-1700

WebKingdom Fellowship

YouTubeDr.Luke's Kingdom Fellowship Channel

ApplePodcast:Kingdom Fellowship Celebration

セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。

全国有名書店で発売中

 
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イエスの誕生と死、そして復活が意味するものは何か?最初の人類アダムとエバの“失楽園”、ノアの箱舟、モーセによるエジプト脱出・・・数々の映画のテーマにもなる聖書の奇跡とイエスの生涯に新しい光をあてる。それらは現代人のわれわれとどんな関係があるのか?神は今もなお生きて働かれるのか?それを経験する鍵は?人類のロングセラー「聖書」の世界をよりあざやかにリアルなものとする挑戦的な書。

●面白い口コミがありました:聖書は既読ですが、モーゼが杖をついたら海が二つに割れたり、イエスが一つのパンで何百人の人を養ったりと、神話的な話として読んでいました。この本を読んでからは、神話や伝説ではなく、リアリティとして感じられるようになりました。
●読書メーター感想:読んでも意味がわからなかった聖書がなんとなくわかった。聖書の読み方が変わった。

ホリゾンタルとヴァーティカル、あなたはどちら?

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あちこちの聖会とか、いわゆる油注ぎの器とかを巡り歩く人々がいる。自分の体の癒しや問題の解決を求めて、カネと労力を浪費しながらも・・・。そして、たいていは失望に終わるのだ。この人でも、また、ダメだ・・・と。嗚呼、このような人々はトンデモ勘違いをしている。世でもミュンヒハウゼン症候群と言われる人々はドクターショッピングをする。この病院がいい、あのセンセイは名医だとか聞くと、もう居ても立っても居られないのだ。これも立派なビョウキ。このような地面を這いずり回る限り失望に次ぐ、失望で終わる。いい加減、目を覚ませよ、と言いたい。

メッセでも語ったが、私たちはイエスと全く同じに世の者ではない。私たちは上から神によって産み出された存在、つまり神属人類新しい創造ニュークリーチャー、つまり新生命体なのだ。

上から来る者は、すべてのものの上にある。地から出る者は、地に属する者であって、地のことを語る。天から来る者は、すべてのものの上にある。-John 3:31

わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです。-John 17:14

聖書は日本語で考えるな、と何度も言っている。この「ように」が曲者なのだ。原語は"kathos", Strongによれば"just (or inasmuch) as"だ。つまりイエスが世のものではないのとまったく同じに私たちも世のものではない。イエスは神のロゴス(John 1:1-3)、神のサブスタンスの物理的時空間への現出(Heb 1:3)。私たちも同じだ、と言っているのだ。つまりイエスはエイリアンであり、私たちもそれと同じエイリアンである! 上から来た存在、上に座す存在、新しい生命体としてのエクレシアの中にバプテスマされた存在なのだ。ゆえに

このエクレシアはキリストの体であり、すべてのものをすべてのものの中に満たす方の充満である。-Eph 1:23(岩波訳)

エクレシアとはキリストの充満。これをキリストが満ちておられるところ、とか訳すのでズレるのだ。つまりキリストである! 私たちは神が生み出した存在。人は人を生む、犬は犬を生む、ならば神は神を生むのだ! というと、いよいよDr.Lukeも異端に落ちたと喜ぶむきもニッポンキリスト教にあろうと思う。私の言葉尻をとらえたくてうずうずしながら虎視眈々と狙っている人々がいるのだ。

御父は、御心のままに、真理の言葉(ロゴス)によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。-James 1:18

人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。・・・肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。-John 3:3-6

では、彼らに聞こう。神が生み出したものとは何か? 

私たちは水平方向に生きる者ではない。この地上をあちこち彷徨う者ではない。地のものはフェイク、マトリックスである。垂直方向のリアリティーに生きる者である。救いはどこから来るのか。天地を作られた神から来るのだ(Ps 121:1-2)。別に彷徨う人々に、それをやめよ、と言うつもりはない。ご勝手にどうぞ。ただ、ご苦労様な事です、と声をかけたい。あなたが自分の真のアイデンティティーポジションアビリティインヘリタンスに覚醒するならば、あなたの抱えてソレは瞬時に蒸発してしまうであろうに・・・。ヴァーティカルに突き抜けた人はすぐに分かる。独特の解放感を漂わせるからだ。改めて、フェイスに覚醒した者は幸いである!

本日のプレイヤーMTG

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正直、すごかった・・・。各人が主に触れられ、みなビリビリとそのタッチを感じたと証しされていた。交わりもかなり親密にシャアすることができて、一層の深まりを感じている。御体の中で諸々の事柄を共有するばかりでなく、霊を共有し、主を語り合う幸いにまことに感謝する次第。何かが着実に進行しつつあるようだ・・・。極私的にも息ができないほどに迫られるのだ・・・

イスラエル、再建国68周年

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さて、1948年は・・・もちろんイスラエルの再建国の日(5月14日)。AD70にローマのタイタスによって滅ぼされ、2,000年にわたるディア スポラから約束の地にイスラエルが帰還した日。現代のユダヤ人の定義は必ずしも血統的なものではないので、もちろんそのすべてがアブラハムの子孫ではない だろう。が、この国が神の瞳であることは動かせない霊的事実だ(Zech 2:8)。私は置換神学はとらないし、それは真理ではない。彼らの選びは経綸的選びではあるが、今も有効である(→「教会とイスラエルの関係について」)。

アブラハムの子孫が外国に囚われた機会は何度かある。一度はエジプトに430年(Exo 12:40)。次はアッシリアによる北王国の崩壊(BC721)、およびバビロンによる南王国の捕囚。このバビロン捕囚はエレミヤなどにより70年間と予言されていた(Jer 25:11)。この期間の数え方は

 ・BC606年(第1次捕囚 )~536(故国への帰還)の70年
 ・BC586年(神殿の破壊)~516(神殿の再建)の70年

と複数ある。いずれにしろ、バビロンに捕囚された民の一部が帰還し、大多数はバビロンに残った。バビロンでもそこそこの生活が楽しめたのだ。これは神の国よりもこの世を愛することの象徴であり、レフトビハインドの予型でもある。

さて前者に基づいて次のような計算が成り立つ。エゼキエルに

また、一枚の鉄の平なべを取り、それをあなたと町との間に鉄の壁として立て、あなたの顔をしっかりとこの町に向けよ。この町を包囲し、これを攻め囲め。これがイスラエルの家のしるしだ。
あなたは左わきを下にして横たわり、イスラエルの家の咎を自分の身の上に置け。あなたがそこに横たわっている日数だけ彼らの咎を負え。
わたしは彼らの咎の年数を日数にして三百九十日とする。その間、あなたはイスラエルの家の咎を負わなければならない。
あなたがその日数を終えたら、次にまた、あなたの右わきを下にして横たわり、ユダの家の咎を四十日間、負わなければならない。わたしは、あなたのために一年に対して一日とした。-Eze 4:3-6

すなわち430日、1日は1年だから430年。ここから従順の年数である70年を引くと360年。レビ記に神は不従順に対しては7倍の裁きを行うとあるゆえに(Lev 26:18)、360×7=2,520年。聖書の1年は360日だから、2,520×360=907,200日。太陽暦に直すと907,200÷365.25=2483.8年。こでBC536年から数えると
 
 -536+2483.8+1=1948.8(紀元0年はないことに注意)

かくしてエゼキエルの予言は、AD70年の世界へのディアスポラ以降消失したイスラエルの1948年の再建国をもって見事に成就しているのだ!(Grant Jeffrey, Armagedon-Appointed With Destiny, 1988)

God bless!

フェイスとは

何度も繰り返しているが、「信仰」という単語はあまりよろしくない。日本語で聖書を考えるといわゆるニッポンキリスト教ができると指摘している。原語のpistis、英語のFaithは、別に使徒信条告白ぅ、「われはコレを信ず、アレを信ず・・・」と社是訓を唱えることではない。

今、フェイスとは願うことのサブスタンス(実体あるいは実体化)、目に見えないことの立証(証明あるいは現出)である。-Heb11:1(私訳)

スピリチュアルなサブスタンスをこの五感の領域、物理的時空間に現出させることなのだ。iPS現象は肉体的生命現象、Faithは霊的生命現象。その霊的 実体がこの物理的時空間において証明されること。これがフェイス。それは電磁波という物理的サブスタンスを目によって実体化することと同じ。霊的サブスタ ンスは霊によって実体化される。その霊の機能がフェイス、すなわちシックスセンスなのだ。

聖書を宗教本にすることなかれ。いわゆるキリスト教のマトリックスから解かれよ。それは所詮五感の領域のオハナシ。クルシチャンを産むだけ。まことに必要なのはフェイスの覚醒である。

ボディビルの奥義

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昨日、ファスティングを終了。都合4日間。なんと食べ物が実に美味い。味覚の感受性が高まり、じっくり噛んで、じっくりと味わう。いや、佐々木さ ん、ファスティング、ハマりそうです! ボディもかなりしまった。マイナス3キロ。このボディビルって、一度ハマると病みつきになるのだ。

ちなみにエバは眠らされているアダムのわき腹から取られた骨によってビルドアップされた(Gen 2:22)。アダムはキリストの、エバはエクレシアのそれぞれ象徴であるが(Eph 5:32)、 エクレシアもキリストが眠らされることにより、そのわき腹の傷から流れた血と水により聖霊のパワーから生み出された。そして今、キリストの御体としてビル ドアップされている(Eph 4:16)。黙示録では小羊と新エルサレム(エクレシアの完成)の結婚で終わる(Rev 21:2)。

聖書は、要するに、結婚で始まり、結婚で終わる。終わるというか、実は時空間を超えているのだが・・・。ともあれ、キリストはご自分のボディをビルドアッ プされている。このときに大切なことは、すでにすべては完成していること。それをクリアに見ること。エクレシアはキリストの充満(Eph 1:23)。その霊的サブスタンスが 今、ここに、現出するのだ。つまり時空間を超えて完成された姿をゲットしている必要がある。

体のビルドアップも同じ。自分の今の姿を見るのではなく、理想とするボディのシェイプを明確にイメージすること。筋肉を使うとき、その完成されたシェイプ をクリアに心にイメージしつつエクササイズするのだ。すると、そうなる。これも要するにフェイス。フェイスは時空間を超えて、永遠のNOWをこの五感の世 界に現出させるパワー。まことにボディビルって、実はかなりスピリチュアルなのだ(*^^)v 

で、今、極私的にイメージしているフィギュアはコレだ!(ツッコミはなしで、ネ!)

追記:本日のGYMにて、なんだかボディのキレが違う!ファスティング、そのうちジーザスと同じ40日にチャレンジするゾ!

デゥナミスの意味

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これは前にも一度書いているが、重要なので再度。神の力、ギリシャ語ではデゥナミス(Dunamis)、力というと何かしるし・不思議や奇跡などのみを連想するであろうが、これはその人のマインドの中でのマトリックスがその回路で回る傾向があるからだ。一度、いわれるカリスマ派などに懲りた人にとっては、神の力とか言われるだけでアレルギー反応が出るだろう。何か念が籠るというか、強く念じれば癒しが起きるとか思い込んでいる人がけっこういるようだ。いつも言うが御言葉は日本語で理解してはならない。

神の国はロゴスにではなく、デゥナミスにある。-2Cor 4:20

で、その意味だが、Thayerによると

Thayer's Greek Lexicon:
dunamis
1) strength power, ability

 1a) inherent power, power residing in a thing by virtue of its nature, or which a person or thing exerts and puts forth
 1b) power for performing miracles
 1c) moral power and excellence of soul
 1d) the power and influence which belong to riches and wealth
 1e) power and resources arising from numbers

   1f) power consisting in or resting upon armies, forces, hosts

まあ、訳すまでもないと思うが、ミラクルを行うパワーであると同時に、倫理的な力また魂のエクセレンス(洗練)を意味するのだ。それはすなわち魂の健やかさ。聖化とかいうとしばしば髪を七三に分けて、白いシャツを着て、シャナリシャナリのイメージがあるが、Holinessの意味はWholeness。つまり健康・健やかさ。これが魂のエクセレンスだ。ヤコブ書にこうある:

だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。-James 1:21

この「できます」とあるギリシャ語は"dunamai"、要するに"Dunamis"のことである。最近、Dr.Lukeはやたらとしるし・不思議とか癒しとかを強調し、ニューエイジ的用語を連発して、福音からはずれていると言われるむきがあるようだが、私はすべて御言葉を語っている。原語にはあるが、日本語にないだけ。繰り返すが、ニューエイジがバイブルをパクっているのであり、日本語で真理を考えてはならないのだ。それは日本語のマトリックスを持ち込んでしまい、ニッポンキリスト教が出来上がる。

要点は何か。別にしるし・不思議や癒しや奇跡を魂のトランスフォーメーション(古い用語では「聖化」)、メタモルフォーシスと切り離す必要はないのだ。すべてキリストの十字架に含まれているからだ。ニュークリーチャー、新生命体であるエクレシアはそのすべてをすでに得ている! キリスト教のマトリックスから解かれよ。聖書は宗教や倫理や道徳の本ではない。それは生命現象を取り扱う書物なのだから。

愛する者よ、あなたの魂が栄えているように、あなたがすべての面で栄え、健康であるようにと祈っています。-3John 1:2

フェイスが働く培地と瞬間-幼子のように

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メッセでも語ったが、恐れの霊を受けてしまうと祈りが働かない。恐れから祈る祈りはすでに恐れの霊によってドライブされているからだ。これは誰もが経験したものと思うが、祈りが単なる言葉の繰り返しになって、サブスタンスにタッチする感覚がないのだ。このような場合、さらに事態を悪化させるのは、自己弁護だ。霊的書物をよく知っていたり、頭脳がけっこう高級な方々によくみられる兆候であるが、アレコレの用語を用いて、自分の状態を分析したり、事態をあたかも客観的に冷静に把握しているかのような素振りを作ってしまうのだ。

大地は粘土に型を押していくように姿を変え/すべては装われて現れる。-Job 38:14

われわれは地であり、そこに次から次へと様々なスタンプが押される。もちろん神の印も押されるのだが、しばしば敵の印を押されてしまうのだ。病気や欠乏や人間関係の縺れなど・・・、これらはこの世の霊が生み出しているマトリックスである。が、それに同意するとき、それは動かし得ないリアリティーかのように私たちに迫る。そのような状態で祈っても祈りは空疎に落ちてしまうのだ。それは衣装をとっかえひっかえするように表の表現を様々に変える。しばしば自分で自己弁護のためにその装いを厚くしてしまうのだ。これがマインドの罠、要するに自縄自縛状態。自分のマインドの中に自分を幽閉してしまう。こうして神のデュナミスの流入をブロックするのだ。

はっきり言おう、フェイスがなかったら、ないと言えばよい。とても自分の病気が癒されるとは信じられないと本心を語ってしまうのだ。不思議なもので本心に立ち返るとき、神のタッチを受けるのだ。

そこで、彼は本心に立ち返って言った。-Luke 15:17

この瞬間、あれほどに縺れていた蜘蛛の巣がサッと解けてしまう。自分でどんなにもがいても得られなかったものが、瞬間的に「得られた」と分かる。すると平安がさあーっと心に満ち、喜びがこみ上げてくる。これがフェイスの瞬間だ。理屈ではない、ただ分かる。I know that I know. 終わった、得た、開かれた、解かれた、癒された、と分かる。それは完了形。サブスタンスを得た瞬間である。あとは時系列の中でこの物理的時空間にそれが現出してくる。もちろん瞬時に現れる場合もある。

霊的な書物をたくさん読み、あるいは聖書の知識などは豊かに得ている人が、しばしば悲惨な事態を経験する場合が多い。その時に外から見ていると原因が分かるのだ。何が敵の侵入を許すポイントであるのか。敵が付け込む隙、フェイスの穴が見える。ヨブのケースで明らかだが、引き寄せの法則的に自ら招いているのだ。霊的知識とか霊的書物、あるいはフェイスの偉人たちの黙想集や証集などは役に立たない。その当事者のフェイスが問われている! これはある意味崖っぷちであり、フェイスの有無が文字通り命運を決める。フェイスはきわめて単純。むしろややこしいリクツなどは知らない方がよいだろう。自己を偽らず、飾らず、単純に受けるだけ。これがフェイスを生む培地。まことに

天国は幼子のものである。-Mark 10:14

聖書を学ぶことも大いなる罠になる。聖書を知っていることはひとつのこと、フェイスを用いるのは別のことである。聖書をよく知っていてもフェイスのない人は山ほどいるのだ。御言葉は啓示、啓示は霊的領域を顕わに見せてくれる。それは言葉(ロゴス)を超えている。リアリティーに直接タッチすることなのだ。このとき、神のデュナミスが流れ込むのが分かる。身体反応や情緒的反応として文字通り経験できるのだ。霊的サブスタンスが五感の領域であるこの物理的時空間に現出する。これがフェイスの作用。その意味で聖書の知識というマトリックスからも解かれる必要があるのだ。聖書を介して啓示を得ること、それはすなわち霊的領域のサブスタンスをゲットし、そのリアリティーに触れることだ。そのために霊をチューニングし、鋭敏にする必要がある。まことに神のバイブレーション、レーマを聞くことができる者は幸いである。

Our Worship

TODAY'S CELEBRATION 【May 08, 2016】

タイトルブレイクスルーせよ

聖書個所:ヨブ38:13-15;38:33;22:28など

5月15日のセレブ

 ・場所:エスカル会館2F会議室
 ・時間:0900-1200(会場の都合で午前となりますので、ご注意ください)

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セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。

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●11月に一般の100書店に配本され、2月に別の100書店に配本されました(⇒書店リスト)。また紀伊国屋では1年間常備されます。書店に直接注文していただけますと在庫を増やしてくれますので、よろしくです。こちらの注文表をお持ちください。なお、出版社の在庫があとわずかとなった模様です。

●面白い口コミがありました:聖書は既読ですが、モーゼが杖をついたら海が二つに割れたり、イエスが一つのパンで何百人の人を養ったりと、神話的な話として読んでいました。この本を読んでからは、神話や伝説ではなく、リアリティとして感じられるようになりました。
●読書メーター感想:読んでも意味がわからなかった聖書がなんとなくわかった。聖書の読み方が変わった。

フェイスはスーパーナチュラル

というと、けっこう抵抗を覚える人がいるようだ。大切なのは普通の人間としての日常生活だとか・・・。嗚呼、彼らは大いなる勘違いをしている。彼らに聞きたい:私たちはキリストと共に死んで復活した、とある(Rom 6:1-5)。あなたはこれを信じるか?

当然、信じる、少なくとも福音派ならばそう言うだろう。あるいは言わざるを得ないであろう。ならば、あなたはスーパーナチュラルを信じなくてはならないのだ。なぜ? 二千年前のあの事件のときあなたはどこにいたのか? そう、あそこにいたのだ! これを実体化するのがフェイス。つまりフェイスは物理的時空間を超えて、タイムトラベルするのだ。ちなみに日基のある牧師が、今の自分と二千前のイエスという男と何の関係があるのか、と書いていたが・・・嗚呼。

私たちはアダム系においては終わり、キリスト系の新しい人類、新しい生命体、ニュー・クリーチャーとして復活されたのだ。よく「自我を十字架につけてぇ~」と叫ぶ向きがあるが、まことにお疲れさま。それはすでに終わっている!(Gal 5:24)そもそも主は言われたではないか、完了した、と。すでに聖とされ、すでに完成されている(Heb 10:10)。これが真理、つまり霊的サブスタンス。宗教的クルシチャンから解放されよ。

癒しも同じ。神さま、癒してください、憐れんでください・・・。これはポイントを外している。神は言われるのだ、すでに癒されている、と! いつ? あの事件のときだ。カルバリに私はいたのだ。だから、彼の打たれた傷により癒された。完了形! フェイスは希望ではない。フェイスは霊的事実、つまり真理(Truth)を扱う。それは霊的サブスタンス、すでに用意されている。もっと言えば、イエスは永遠の昔からすでにほふられていたのだ(Rev 13:8)。カルバリの事件はその霊的サブスタンスがこの物理的時空間に現出したものだ。

では、なぜ癒されない人がいるのか? 簡単だ。五感に生きる人は言うであろう、自分にはまだこれこれの症状があると。それは物理的時空間における事実(facts)に過ぎない。マトリックスだ。その訴えがフェイスの欠如を証明してしまっている。よく、「信じれば癒される」と言うが、これはトリック。フェイスは願うことのサブスタンスそのもの、そしてその立証(Heb 11:1)。つまりフェイスそのものが癒しなのだ。それは癒しの条件ではない。

その他、ボーンアゲインから、キリストの内住、聖化や必要の満たしなど、ありとあらゆる私たちの経験はすべてフェイスによる。なぜ? フェイスによらないものはすべて罪だから(Rom 14:23)。かくしてフェイスはこの五感の世界、物理的時空間を超えて働くのだ。カルバリの事件は単なる歴史的事実ではない。今、ここに、展開している永遠のNOWのイベントである! それはフェイスによってのみわがものとすることができる。

いのちと敬虔にかかるものはすべてすでに与えられている。-2Pet 1:3

それは霊的領域のサブスタンス。それにタッチして、この物理的時空間に現出させる霊の機能がフェイス。

今や、フェイスは願うことのサブスタンス、見えないことの立証である。-Heb 11:1(私訳)

スーパーナチュラルでないフェイスがあったら、ぜひ見せてほしいと思うのだ。私たちがすでに得ているものを享受するカギは何か。フェイス。それはシックスセンス。まことに-

だれでも、願うものは何でも、祈るときすでに得ていると信じていよ。そうすれば得られるであろう。-Mark 11:24(私訳)

あとは私の著書をぜひどうぞ^^v

追記:フェイスを得るのは? われはアレを信ず、コレを信ずとやってもあまり意味はない。

フェイスは神のレーマを聞くこと、聞くことはキリストのレーマによる。-Rom 10:17

神のバイブレーションと言葉(ミレア)は全地に満ちている。電波と同じ。あとは私たちの霊がそれにチューニングされるかどうか。あなたは何にチューニングし、何を聞いて生きているのか。これがすべてなのだ。

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