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Category: 信仰

裂かれた天

そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。-Mark 1:10-11

天は裂かれた。そこから聖霊が鳩のようにイエスにくだった。そして天の声があった。この声はいイエスのみでなく、今やイエスは長子であり、イエスに続く私たちに対する言葉でもある。私は御父の心にかなう者なのだ。そしてこの言葉は次の祈りの成就である。

どうか、あなたが天を裂いて下り、あなたの前に山々が震い動くように。-Isa 64:1

神が肉体を取られたとは、まさにこのことだ。イエスは天を裂いてくださった。受肉され、ご自分の肉体を裂くことによって。

兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく至聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができる・・・-Heb 10:19-20

この肉体の幕は裂かれたのだ。道は開かれた。天の至聖所に至る道が。私たちは天の領域とこの物理的時空間を自由に行き来することができる存在、新創造なのだ。御言葉は自分はこう思うとか、こう感じる、あるいはこう解釈するとかではない。それは啓示。オツムの発達した人はその肥大化したマインドが邪魔をする。自分のマインドという幕が閉ざしている。それは裂かれる必要がある。

キャサリン・クールマンは、私にとっては目の前のあなたがたより、聖霊の方がリアルなの、と言った。見えない世界、それは霊のみによって見ることができる。一度見たら、この物理的時空間のもろもろの事象は一挙に興ざめしてしまう。そのサブスタンスがこの物理的時空間に現出するダイナミクスを経験する特権が私たちにはあるのだから。私たちにはどれほどの天の富のサブスタンスが分かち与えられていることだろうか。今、極私的にはこれを見極めたいのだ。

 

本日見た幻

真理を知るとは、御言葉をいじってあれこれと解き明かすことではない。自分の経験を語ることでもない。啓示だ。それは天下りに、否応なしに与えられるもの。ピリオド。

同意と拒絶

私がある種の発言にこだわる理由はこうだ。よくクリスチャンは自分の体験や聖書の解き明かしを"分かち合う"。特に自分は聖書を深く理解し、解き明かしすることができると思っている人々は、その自分の感性やコモンセンスをモノサシとしている。が、これが罠なのだ。

例えば、癒しは今日は神はなさらないとか、サタンに立ち向かうことは物事をかえって複雑にするとか、その人の体験から生まれた発言は、はっきりと言う、偽りだ。御言葉は明確にイエスの傷により私たちは癒されたとあり、サタンに立ち向えと書いてある。真の信仰の働くとき、癒しは必ず起きる。なぜ?信仰はサブスタンスだから。また当然、いじっ子に立ち向かうのだ。なぜ?そこに働く霊はあの者の霊だから。

それぞれの体験を尊重し、それぞれの証を無条件に受け入れることは尤もらしいが、クリスチャンの交わりではない。そもそも証って何?逆に実にリスクをはらんでいる。偽りに同意することを意味するからだ。同意すれば、その実は当然に刈り取ることになる。真理はいろいろとか、それぞれの理解の仕方があるとか、いろいろと人は自己弁護をする。まあ、そのように思う人々はどうぞ、互いに受け入れ合えば良い。私は偽りは明確に拒絶する。私たちの言葉は、しかりか、否か。グレーゾーンはない!

人間として親しくしているとか、おもしろい人だからとか、そのようなものは魂レベルの関係であり、ソウル・タイなのだ。主は父や母を自分より愛する者は神の国にふさわしくないと言われた。イエスとその御言葉よりも尊重されるべき人間関係は不健全なソウル・タイである。私たちの生と死は私たちの口による。特に何気ない会話、あるいは親しい関係における会話はきわめて危険であると、最近特に感じている。

私たちは何をどう聞くか、そして何に同意し、何を拒絶するか、それが私たちの霊的歩みを決定するのだ。

CLIP:真の神の民を追う―セブンスデーアドベンチストのルーツ

-真の神の民を追う―セブンスデーアドベンチストのルーツ

これは面白い。SDAはアダムとエバに由来すると。ダニエル預言の最後の7年がこれからとする解釈はとらず、その半ばで(旧)契約を廃するのはキリストだとするわけ。そして日曜日は太陽礼拝とカトリックの権威の象徴であり、最後の時に日曜日礼拝を強要するカトリックの圧力を受け入れるか、拒絶するかで、運命が決まると。彼らのキモは安息日礼拝、つまり金曜日の夜から土曜日の夜の礼拝だ。SDAこそ真理に純粋に従う真の神の民であるというわけだ。

ちなみにウイットネス・リーのローカルチャーチは別名「真理の回復」と称し、歴史の中で失われた真理を回復し、純粋な真理を実行する群れと主張する。そのキモは地方ごとの教会。つまり東京に在る教会、横浜に在る教会・・・・。これが神の定めた教会の合一の根拠であり、それ以外はすべて分裂の教会となる。ゆえに、東京23区が独立行政区となると、新宿に在る教会、渋谷に在る教会・・・と教会も独立することになるのだ・・・・。が、彼らはいわゆる日曜日礼拝(礼拝と言わず、集会という)を実行している。

クリスチャンのあり方の面白さはここにある。

世界モデル(ブリーフシステム)の根本的変革

物理的時空間にのみ生きる場合、たとえばガンになると、原因はDNAの損傷あるいはコピー不良により、病的タンパクが作られ、制御不能になって、全身に散って、正常臓器を損傷し、ついには死に至ると考える。よってそのがん細胞を殺すために、外科的処置、化学あるいは放射線治療と考える。これは物理的時空間でのリアリティーによる。

が、イエスはそうは見ない。病気は霊から生まれると知っている。spirit of infirmityだ(Luke 13:11)。だからその霊を叱る、あるいは呪う。すでに十字架においてあらゆる霊的存在は武装解除され、晒し者にされている(Col 2:15)。それらの霊には私たちの身体にアクセスする何らの権利も力もない。が、こちらが彼らにポータルを開いてしまうのだ。ちょうどハッカーが無防備に開いているポートをスキャンし、そこから侵入するように。そのポータルは、例えば、人を恨み続けるとか、時には神を恨むとか、嫉妬や妬み、あるいは自分の経験やスキルを神の言葉以上に置くこと、つまり不信仰などだ。サタンと悪霊はそこに足がかりを得るのだ。その霊が侵入すると、この物理的身体と相互作用を起こす。元々、土のチリからボディを作られ、神の息吹を吹き込まれて魂が生まれたように(Gen 2:7)、この物理的存在と霊は相互作用をする。だから癒しの言葉で実際に体に癒しが起きるのだ。

つまり聖書の啓示するリアリティーは、霊と物質界とのダイナミクスによって、この物理的時空間におけるもろもろの事象が生じては消え、消えては生じるとするのだ。神とサタンと人間の三角関係のダイナミクスに置かれているのがわれわれ。天を変えることが出来れば、地は変わる。だから祈りの意義がある。祈りは天のサブスタンスを生み出し、育て、この地に運び下ろす。マインドがこの聖書的世界観とダイナミクスモデルに従って組み替えられるほどに、天の権威を用いることが出来る。私たちはすでに天の座に座している存在なのだ(Eph 2:6)。そこから地へと語り出すこと。問題に出会うとき、それをあれこれ分析するのではない。主は言われた、山に命じよ、そして信じているならばそのとおりになる、と(Matt 21:21)。

これがアベルとセツの道。すでにそのための血の代価は完全に払われた。また備えも必要にして十分。否、あまりある。あとは私たちの応答、すなわち信仰次第なのだ。自分は水の上を歩くつもりはないなどと開き直るのではなく、ペテロのように、主よ、お語り下さい、と率直に求めるべきなのだ。神の言葉が一言あれば、私たちも水の上を歩き、山を動かし、実のならないいちじくを枯らせ、ガンも消滅させることができる。まことに

神の語り出された言葉(レーマ)には不可能はない。-Luke 1:37

悔い改めとか自己を否むの真の意味はここにある。

 

天の園を管理する

人はこの世界に自分の意志によらず生まれ、意志によらず去るという不条理に置かれている。その中を自分のオツムと肉体でサバイバルするのが人間の実存的状況(肉のあり方)。その努力を繰り返すうちに、いわゆる人生経験を積んで、個々の人生観とか価値観や美的センス、そしてリテラシーやスキルなどを獲得していく。これがその人のアイデンティティーとなり、その物差しを他者にまた状況にあてがって、この人はどうの、この状況はどうのと言い出す。自分の物差しが絶対となるからだ。

しかし、これはあくまでもこの物理的時空間における話に過ぎない。イエスは決してそのような物差しによっては生きていなかったし、測ってもいない。彼は天の物差しに従っていたのだ。だから弟子たちに対してつねにフラストレーションを覚えていた。いつまで不信仰なあなたがたに我慢しなくてはならないのか!と。またツロ・フェニキアの女が助けを求めてきたとき、犬に与えるパンはないと拒絶した。しかし、女が天の物差しを認め、それに服したがゆえに、イエスは女の願いを叶えた。その信仰を褒めつつ。彼は女がイエスのアイデンティティーとその物差しを見たことに喜びを覚えたのだ。ただ単に女が謙虚だったからとか、しおらしかったとか、純粋だったからではない。女が天に服し、天の法則を掴んだからだ。これが天の園を管理することのひとつの効力だ。

前に、癒しといじめのことに触れたとき、癒されないのは不信仰だからというのか、いじめっ子に立ち向かうことはかえって混乱をまねくし、いじめられる中で人は成長するものだと言われた向きがあった。これ、実に驚いた。未信者が言うのであればスルーだが、自分は御言葉を知っていると公言し、御言葉を人に語る立場の人の発言だったからだ。はっきり言うが、これはこの物理的時空間における自分の経験と価値観によって事態をとらえ、アセスメントし、自分の能力とスキルによって解決をはかろうしているからに他ならない。天の園の管理および天の法則を何ら考慮していない。このような生き方こそがカインの道、レメクの誇りなのだ。

ところがしばしば癒しが起きないなどの形で神に裏切られたと感じるとき、「ポセイドン・アドベンチャー」の牧師メンタリティーに陥る。なぜ、神は癒さない、救わないのか。まだ犠牲を必要とするのか!と。カインの叫びだ。クリスチャンの生き方はアベル(信仰による捧げ物)とセツの道(神の備え)にある。それは天の権威に服し、天の法則を用い、天の園を管理することによる生き方。天で与えられている自分の領域のサブスタンスを養い育て、それをこの物理的時空間に現出させるのだ。つまり病気の癒しもいじめの問題も、その他この物理的時空間における森羅万象は、まず天の領域で処理するのだ。いくらこの物理的時空間の事態を分析し、あれこれ方策を講じても、それは対症療法に過ぎない。永遠にもぐらたたきゲームに陥る。

私たちクリスチャン一人ひとりにはそれぞれのキャパに従って天の園(=嗣業)が割り当てられている。信仰は割り当てられるものであり、自分でふり絞るものではない。そして天の園を管理する責任がある。どうやって?霊の領域に入り(アセンディング)、御言葉による祈りと賛美、そして礼拝によるのだ。下のイザヤ書にあるとおりだ。そこからまたこの物理的時空間に戻る(ディセンディング)。イエスは言われた、わたしは門である。わたしを信じる者はその門を出入りすると。天の領域で問題が処理されると、私たちは「得た」とか「終わった」と分かる。理由は分からないが、分かる。これが信仰の瞬間。I Know That I Know.こうして天の権威を病気に対して、いじめに対し、さらにすべての私たちの人生に立ちふさがる山に対して行使するのだ。主は次の約束をくださった。

わたしは、あなたに天国のかぎ(複数形)を授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれており、あなたが地上で解くことは天でも解かれているであろう。-Matt 16:19(時制に注意)

決して天が地に従うのではない。天の事実、サブスタンスが地に現れるのだ。カインの道は地だけの価値観と能力・スキルや経験値で生きる生き方。それはセルフの道、いずれ破綻する。というより、それに頑なにこだわる人は、実は神に裏切られることを恐れている。あるいはすでに裏切られたと感じているのだ。だから明け渡しができない。それは怖いことなのだ。ゆえに自分の能力・スキルを主張し、それに頼るほかなくなる。彼らは確かに相当に勤勉に人並み以上に努力している。だから譲れないプライドがある。対して天のサブスタンスによって生きる人は安楽。努力もしない。天の園の果実を味わうだけだから。信じる者は自分のわざをやめて安息する。

アダムとエバは自分の感覚と価値観に従ってエデンの園を失った。その地を管理する義務を怠り、そのすべての木の実を享受する権利を失った。が、信じる者にはイエスの血によって天の園が贖い取られた。私たちはそれぞれ割り当てられた嗣業を天の園に所有している。そこに天のサブスタンスを植え、育て、養い、管理するのだ。すでにそれらも神の信仰に含まれている。神が願われるように、天の法則に従って、感謝と賛美によって水を注ぎ、祈りにより養分を与え、サブスタンスを成長させるのだ。その園の広さ、つまり管理し得る領域のキャパ、そしてそこに育ったサブスタンスの質と量が、私たちの地上で享受する豊かさを決定する。私たちがその天の豊かさを享受することは私たちの喜び。そして御父の栄光。同時に私たちもその栄光に与るのだ。

私たちは自分の経験や自分の物差し、美的センスやスキルなどを放棄するほどに、天の園とサブスタンスがリアルになる。天の権威を行使する鍵は、いかに天の権威に服しているかにかかっている。服すれば服するほど、天の権威が、神の国の鍵がリアルに感じられるようになる。実感を覚えつつ、その効力に手応えを覚えるようになる。キテル、キテル、と。目の前は何も変化しなくとも、その根っこはすでに腐れている。いちじくの木と同じように、いずれ木も枝葉も枯れる。私たちは目に見えるものによらず、見えないものによって歩む。が、それは何か心もとない経験ではない。実に手応えのある経験なのだ。イエスはラザロの甦りをきわめてリアルに感じていた。神の国はリアルに到来している。影とか写しなどでは断じてない。神はサタンの権威に服する方でもない。私たちは天の権威を、今、ここに、この物理的時空間に行使するのだ。天において御心がなるとおりに。そのためには天の園を管理し、その領域を広げ、そのサブスタンスをどれだけ養い育てることができているかが問われる。私たちの味わう豊かさと栄光はまさにこのことに比例するのだから。

天の園のサブスタンスはどのように解き放たれるか。それは語ることによる。神の国はイエスがなされたと同様に、語り出すことによって実体化される。私たちは信仰の霊を得た者は信じたなら語る。サタンは私たちが語ることをウザイと感じるのだ。だから私たちの口を塞ぎたい。パウロに主は言われた語り続けよ、と。イエスも語り続けた。すでに世はサタンの王国の言葉で満ちている。テレビ、ネット、映画、音楽、芸術などなど。天の園を管理し、サブスタンスを育たてたら、語ること。神は語ることにより創造された。原則は同じ。神は私たちの口の言葉の実を創造されるのだ。

GLORY BE TO GOD!

天の園とは?

というご質問をいただいた。これ、きわめて本質的かつ実に魅力的なテーマ。私もずっと主に問いかけてきたが、今、私の内側で熟成しつつある。ちょっと時間をかけてまとめてみたい。これが分かると、そして管理の仕方を知ると、私たちの祈りとミニストリーは根本的に変革される。

 

カインの霊の兆候

カインの子孫にレメクが生まれる。レメクの意味は「力」だ。つまり自分にあって力に満ちている者、これがレメク。彼はふたりの妻を持った。男にとって妻子を養うことは男の証明であり、夫として、父としての誇り。だから昔から政治家は何人も妾を持った、自分のパワーの象徴として。人類の歴史で一夫多妻の始まりがレメクだ。その妻はアダとチラ。アダの意味は「美しい存在」、チラは「陰」だ。後のサラとハガルのように、どちらかが光を浴び、片方は陰に置かれるものだ。レメクはこのふたりの妻にこう高らかに宣言する。

アダとチラよ、わたしの声を聞け、レメクの妻たちよ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしは受ける傷のために、ひとりの人を殺し、受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍。-Gen 4:23-24

名前の通りの自分の力の誇示こそ、カインの道の究極の表現だ。ちょうどレスラー小川直也を彷彿とする、「俺とまっとうに戦うやつはいないのか。かかってこいや~」と。かくしてカインの子孫は後のノアの洪水を招く原因になる。

対してセツの系列は創世記5章において淡々と静かに記録されている。エノクは神と共に歩み携挙された。そして今回のメッセでも語ったが、メトシェラ(「彼の死がそれをもたらす」の意味)で洪水の時が予告され、ノアの一家が選ばれて洪水に至る。すなわち、ノアはレメクの子でレメクが182歳の子。レメクはメトシェラが187歳の時の子であり、そこで「187(レメクの誕生)+182(ノアの誕生)+600(洪水の年)=969」となるが、メトシェラの寿命はちょうど969歳。名前の預言どおり、彼が死んだとき、ちょうど洪水が起きたのだ。神はご自身のはかりごとを預言者に語らないでは何もなされない(Amos 3:7)。

何度も繰り返してきているが、時代はカインの霊とアベルの霊の相克の時代。イスラエルとエクレシアに対する迫害も増す。その中で自らの力に頼り、誇る者は淘汰される。カインの霊から解かれる者は幸いだ。

注1:4章のレメクと5章のレメクは別人。

注2:ルカ書などには洪水で流されてしまうまで人々は気がつかなったとある。これは選びから外れた人々のこと。神の選びの民には必ず神はご計画を明らかにして下さるのだ。

参考:セツの道のひとつの証。ホームレスからミニストリー(公式サイト)へ。

-Steven Brooks(@Youtube)

 

 

 

したいことをしない祝福

カインの道に対しては新訳でも警鐘が鳴らされている(1John 3:12;Jude 1:12)。今、その霊と決別してみると、恐るべきところにいたと感じている。自分がもっとも誇るところ、自分が当然としているところ、そして自分が心地よいと感じる領域、これはカインの領域なのだ。神から離れた自給自足の生活、音楽や芸術などの娯楽、科学技術依存のあり方。まさにこれが現代社会ではないか。対するセツの道。神の備えによる歩み。その子エノシュから人類は主の名を呼び求めるようになった。エノシュの意味は"mortal(死ぬべき者)"。つまり人類は弱さを知ったのだ。・・・といったことはかつて私自身も書いていた。

-カインとアベル-神の道に至る葛藤 -

しかし、ヨブのように、 無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。・・・あなたのことを聞いてはいましたが、今、直接見ました。それゆえチリ灰をかぶり、自分を退け、悔い改めます(Job 42:3-6)。12月に私はまったく予期もせず、あの領域に触れ、直接見てしまった。いにしえのモーセも、ギデオンも、イザヤなどの預言者たちも、新約のマリヤもザカリヤも、そしてパウロもペテロもヨハネも、みな例外なく神の領域を見ると恐れ、混乱し、取り乱すのだ。自分は何を見たのか、自分はおかしくなったのか、自分はどこにいるのか・・・と。

今、御言葉との照合をほとんど終えて、整理がついてきているが、今度は、その神の領域に入ることが喜びとなる。下のビデオで個人的携挙と言っているが、まことにその表現は適切だ。あるいはアセンディング。そしてその領域を祈りと言葉によって整えて地に降りる。ディセンディング。するとその領域のサブスタンスが時系列の中でこの物理的時空間に現出する。これが信仰だ(Heb 11:1;11:3)。イザヤ書ではこう描写している:

主は常にあなたを導き、焼けつく地であなたの渇きをいやし、骨に力を与えてくださる。
あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。
人々はあなたの古い廃虚を築き直し、あなたは代々の礎を据え直す。人はあなたを「城壁の破れを直す者」と呼び、
「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ぶ。
安息日に歩き回ることをやめ、わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ、安息日を喜びの日と呼び、
主の聖日を尊ぶべき日と呼び、これを尊び、旅をするのをやめ、したいことをし続けず、取り引きを慎むなら、
そのとき、あなたは主を喜びとする。わたしはあなたに地の聖なる高台を支配させ、父祖ヤコブの嗣業を享受させる。
主の口がこう宣言される。-Isa 58:11-14

文字通り、天の園を整えるのだ。新訳の私たちにとっては毎日が安息日。主を喜ぶ鍵は何か、自分がしたいことをするな、自分を喜ばすことをするなということだ。これはいわゆるニッポンキリスト教の宗教的縛りではない。むしろ解放。なぜ?カインの道を行く者は自己実現をはかり、自己満足を堪能しているかのようであるが、実はそれは大いなる束縛だから。しかも自分が束縛されていることに気がつかないことが致命的なのだ。エノシュのように自分がmortalであると知ること。そこから主の備えに頼るセツの道を歩むことができる。簡単に言えば、自己(セルフ)の道からの解放。それは主を喜ぶことなのだ。すると地の高台を支配し、ヤコブの資産を享受できる。WOW!

SO BE IT !!!

語り出された言葉の力

ある方から伺った話。その方の母親は、なぜか、自分はガンになる、ガンになると繰り返していたとのこと。さらに自分は70歳で死ぬとまで。そしてなんと、69歳でガンになり、1年後に亡くなった。私たちの生と死は口によって支配されるとあるとおりだ。

死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。-Prov 18:21

前に紹介したこのCLIP、この中でもエルビス・プレスリーの話が出ている。彼は母親と同じ歳までは生きていないと、生前繰り返していたようだ。そして、ちょうど母親と同じ年齢で死亡した。語り出された言葉、レーマにはパワーがあるのだ。これらの人々は負の自己予言をしてしまったのだ。私たちはポジティブな言葉を自分自身に語るのだ。

 ・アイ・アム・神の子
 ・アイ・アム・聖
 ・アイ・アム・義
 ・アイ・アム・リッチ
 ・アイ・アム・御座
 ・アイ・アム・ブレスト
  ・・・・

神の名はYHWH、発音についてはいろいろと説がある。Adonaiの母音をつけて、「エホバ」;否、「ヤハヴェ」、否「ヤホワヤ」などなど。意味は「ありてある」。「アイ・アム」だ。イエスは「エゴ・エイミー」と言われた。まさに「アイ・アム」である。私は前著で「信仰とはアイ・アムの実体化だ」と言った。私たちも神のZOEをインプラントされた存在として、「アイ・アム」を継承しているのだ。これらの言葉を語れば、その実を得る。語り出された言葉は霊であり、いのちである(John 6:63)。

あなたが霊を送られると、彼らは造られる。あなたは地のおもてを新たにされる。-Ps 104:30

わたしは唇の実りを創造し、与えよう。-Isa 57:19

神の霊があるところには創造がある。霊から語り出された言葉には神の霊が塗られている。その実を楽しむことができるのだ。

このCLIPを採録しておこう。個人的携挙による天の領域での仕事は語ることなのだ。

-「天にある自分の園を手入れすると地上で何が起きるのか」 Dennis Walker

 

カインの霊との決別

カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。 ・・・カインはを建て、その町の名をその子の名にしたがって、エノクと名づけた。 ・・・アダはヤバルを産んだ。彼は天幕に住んで、家畜を飼う者の先祖となった。・・・その弟の名はユバルといった。彼は琴や笛を執るすべての者の先祖となった。 チラもまたトバルカインを産んだ。彼は青銅や鉄のすべての刃物を鍛える者となった。-Gen 4:16-22

カインはアベルを殺して後、エデンの東に追放された。額にしるしを付けられて。自分自身は町を造り、子孫は家畜飼育(=食物維持)、琴や笛の奏者(=娯楽享楽)、聖堂や鉄の精錬(=科学技術)の祖となった。

かねてから私はここで、現代はカインの霊とアベルの霊の相克の時代と言っている。神に拒絶された者と受容された者の間の葛藤だ。で、自分自身はアベルに着くものと思っていた。が、今回、聖霊により明らかにされたことがある。私はカインの霊の影響下にいたと。

すなわち、私はいわゆるサイエンティストとしてのプライドにより、メッセでも語っていたが、病気になったら祈る前に病院で検査してもらえ、のスタンスだった。これは完全にトバルカインの霊による発言だ。もっと言えば偶像礼拝。恐るべき罪だ。今回、私はこの発言を撤回、主の前に悔い改め、血による洗いを受ける。まず、祈りからだ。その後、神の癒しを受けるか、一般恩恵としての医学の力を借りるかは個人の自由だ(信仰による)。

十字架以外に自分が誇るところ、自分のアイデンティティーの置き所には信仰は働かない。だから、かつての私は祈りによる癒しを経験できなかった。その領域を支配する霊は聖霊ではないからだ。ここに主の名と血潮に基づいて、自分の知性の誇り高ぶりを打ち砕き、悔い改めることを宣言する(2Cor 10:4-5)。

私はアベルの道、それを継承するセツの道を行くことを願う。セツとは「備え」の意味。すなわちあらゆる神の備えによって生きる道だ。神の救いの計画はセツ系の子孫からイエスへと至るのだから。

霊的領域の介入

Salt氏の言についてはまた機会を改めた方がよいと思い、一度保留する。見えない世界に目を留めようと言っているので、時を待ちたいと思う(本音は、元々こういった絡みは疲れるから・・・。ごめんなさいエール)。結局のところ、マインドがこの世界のみで構成されているか、霊的領域のパラメーターも含めて構成されているかによるのだ。目に見えない世界は霊によって感知するしかないが、この霊の開かれ方は随分とスペクトルが広い。開かれていないとどうしようもない。リベラルでは聖霊すら認めない。福音派では聖霊は認めても、異言、癒し、預言などの賜物は認めない。聖霊派は御言葉をすっ飛ばして聖霊様、聖霊様の世界になる。が、今私が語られていることは-

クリスチャンたちよ、目を覚ますべき時が来ている。私小説的なマイワールドで自己実現と自己満足を追求する時は終わり。私も散々この世界を貪ったが、ある意味お腹いっぱい。何も生み出さないし、何も永遠には残らない。天のサブスタンスとその現出(信仰の実)のみが永続するのだ。自分の得ている権威を行使せよ。自分の得ている立場、天の座から地に向かって命じよ。自分は神の国の王であり、祭司であると知れ。自分が得ているパワーがどれほどのものか、信仰によって一歩を踏み出して、解き放ってみよ。自分が得ている富がどれほどのものか、その栄光がいかなるものか。パウロは知恵と啓示の霊を送ってもらえと勧めている。自分はまだ水の上を歩くつもりはないと言われて開き直るのもそれで結構。神は人材には事欠かない。弟子たちはイエスの招きを受けるや、ただちに従ったのだ。物理的時空間もさほど残されてはいない。主よ、来りませ!

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