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Category: 信仰

トラウマ経験は遺伝する

ゲラを本日提出する。修正しているとキリがなくなる。娘を嫁に出すような気分でもあるが・・・。

そのテーマは神の新創造。私たちはニュー・クリーチャー。ネオ・ホモ・サピエンスだ。ホモ・サピエンスの始祖アダムとエバの不従順によって人類に入った罪、単数形のSin(いわゆる原罪)は私たちの肢体に住んでいる(Rom 7:17)。私たちは自分の自由意志で生まれたのでもない、しかし罪を継承してしまった。なんという不条理。諸々の罪(sins)を犯す以前にすでに罪人なのだ。

神学的にはアダムとエバの原罪が私たちの体に継承されるのか否か、いろいろ議論があるようだが、いつものとおり神学などは空論。最近の医学的研究によると、ホロコーストの経験者の子孫はそのトラウマを遺伝子レベルで継承しているとの結果が出ている。通常、生物学では獲得形質は遺伝しないのだが、どうもトラウマ経験はDNAを変化させているようだ。

-Holocaust exposure induced intergenerational effects on FKBP5 methylation

Conclusions
This is the first demonstration of transmission of pre-conception parental trauma to child associated with epigenetic changes in both generations, providing a potential insight into how severe psychological trauma can have intergenerational effects.

人類のもっとも悲惨なトラウマはエデンの園を追い出されたこと。これはDNAレベルで継承されている。逆に言えば、その系列に死んでしまえば、キリストの義をも継承する。キリストの祝された生はDNAレベルでも継承されると言える。私たちは遺伝子レベルで、文字通りに新人類(ネオ・ホモ・サピエンス)とされたのだ!問題はそのキリストの遺伝子が発現するかどうか。昨日のメッセでも語ったが、自分がいかなる存在であるかを知り、その権威と能力を見出すプロセスがメタモルフォーゼ、トランスフォーメーションなのだ。映画『ルーシー』の例を紹介したが、ある意味この映画はわれわれの経験を描いているとも言える。

先に国連で45分間の死の後イエスによって蘇らされた牧師が証言したケースを紹介したが、その際、心臓病の遺伝子が取り除かれていたのだ。DO YOU BELIEVE? クリスチャンとはいわゆる良い行いをするとかしないとか、善良な市民になるとか、いわゆる謹言実直、ホーリネスの牧師さまのようになるとか、そんなレベルのことではない。私たちはネオ・ホモ・サピエンスなのだ。キリスト教という宗教から解かれよ!それは実に生命現象そのものなのだから。

もっとも悲惨なことは、自分がどのような存在であり、どのような権威と能力を有しているか、神が私たちに用意された富がどれほどのものかを知らず、あるいは知っていはいても、その発現を見ることなく、人生を送ることであろう。人として、ホモ・サピエンスとして・・・・。私たちは「醜いアヒルの子」なのだ。

どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。-Eph 1:17-19

TODAY'S CELEBRATION 【Aug 30, 2015】

UPしました。

-Kingdom Fellowship Podcast

タイトル五感を超えよ

聖書箇所:2コリント5:7;ガラテヤ6:15など

9月6日のセレブ

 ・場所:横浜技能文化会館音楽室

 ・時間:1300-1700

 ・Web:Kingdom Fellowship

 

アトモスフィアを変える

前回は兵庫県から、今回は滋賀県から来てくださった。感激する限りである。ずっとPodcastを聞いてくださっているとのこと。ワーシップを聞いた瞬間に、ふわっと開けて、霊に触れたと・・・・。その霊が周りにも伝染しているようです。またある姉妹が証された。台所でも、掃除していても、ワーシップに身を委ねると、すぐに周りの空気が変わることが分かる。何か、透明な、清らかな、ちょっと緑がった空気に包まれる。これがキリッとして素晴らしい感覚に満たされると。自分はこれが好きなんです。最近、祈る度に自分にも家族にも何かが起きるのです。

そう、われわれはアトモスフィアを変える力を持っている。神の霊を招くと私たちの周囲の雰囲気も変わるのだ。これが神の国の現れ。私は今、常に神の臨在、神の霊に包まれる感覚を享受している。これは五感ではない。五感を超える経験。私たちはイエスと同じように、この世のものではない。が、この世にいる。五感による影響を信じ込むと、メッセでも語ったが、騙される。それはホログラムのようなもの。それを相手にしてもまったく徒労に終わる。われわれが生きる領域はこの物理的時空間ではない。五感を超えた世界に生きよ!

 

新著のイメージ

こんな感じになりそうです・・・

あるいは・・・

あなたのマインドがあなたの牢獄

この人、クリスチャンかどうかは不明だが、一面の真理を突いている。クルシチャンたちは自分のマインドという牢獄に閉じ込められているのだ。

Tony Palmerが死去していた

バチカンと一部のカリスマ派が一致する動きを見せていることはすでに警鐘を鳴らしている。ルーテル派はすでに一致を認めているが、おフランシス様の最後のターゲットとも言える。その立役者となったTony Palmerが交通事故で死去していた。神はこの動きを認めていはいないのだ。

 

最後の刈り入れのチャンス

時は近い・・・

-Obama Starts Ezekiel Nuclear War

 

新創造って何?

「私たちは人ではない」がけっこう引っかかる向きがあるようだ。じゃ、何?スーパーヒューマンだ。え、それって?新創造だ。じゃ、新創造って何?・・・こうやって人はあくまでも自分のオツムで理解したがる動物だ。私は聖書に書いてある通りを語っている。新創造は、新しい創造、つまり、それまでは存在していなかった創造物。もちろん、創造物だから神ではない。が、アダム系の人でもない。キリスト系の人、つまりネオ・ホモ・サピエンスと言える。

つまり種なのだから、それがどのようなものかは、新たにその属性や性質を調べて、ひとつのカテゴリーを構築するしかない。これまでのホモ・サピエンスの概念による外挿では理解できないのだ。新種を発見したら、それ自体を調べる必要があろう。新しい種なのだから!神学や聖書解釈の問題ではないのだ。ゆえにイエスはそのなんたるかをデモンストレーションされたのだ。彼が語り、行ったことを見れば、ネオ・ホモ・サピエンスの何者であるかが理解できるだろう。

「イエスは富んでいた」は冒涜???

本日はちょっとある筋と某所でワインを。久々に生牡蠣に与り、ハッピーだった。六本木のROCHIが管理が大変とかで生牡蠣を出さなくなっていたので、嬉しい限りだ。

・・・・と、気分よく帰宅してみると、メールが・・・。いわく、イエスが富んでいたとか、冒涜であると。うーむ、先の医学不要云々とか、ここまでニッポンキリスト教は病んでいるわけか・・・frown イエスが富んでいたとは、私の言葉ではない。聖書の言葉そのものだ。

あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。-2Cor 8:9

この章のコンテキストは献金について。つまり地的な富に関してだ。これで回答としては十分、でしょ!

 

私たちは人ではない

は?・・・あえて言えば、スーパーヒューマンだ。

キリスト教の根本的勘違いは、聖書の啓示を物理的世界に適用し、実行しようする点。かつての私はキリスト教をエクソダスして、普通のおじさん・おばさんとして人生を楽しもうのスタンスだったが、これも見当外れだ。所詮、同じ土俵にいただけ。つまりこの3D+Timeからなる物理的世界の中の出来事に過ぎない。信仰はこの世界に神の国が介入していることを知る。私たちはその世界の住人なのだ。

わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。-John 17:16

パウロもこういってコリント人を叱責している。

あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。-1Cor 3:3

原文には「ただの」はない!これが邦語訳の問題点。勝手なことをするなと言いたい。人のように歩んでいるから、ねたみや争いがある、というわけ。え?では、何?新創造だ。ニュー・クリーチャー。私たちは人ではない!イエスは私たちの肉体と同じ肉体(罪の住んでいない)を着た。かつての私はその人間性こそが神のみ心の中心であり、弱く、貧しく、虐げられ、拒絶され、処刑された人なるイエスこそすべてと思っていた。が、違う。この過程はすべて新創造を生み出すプロセスなのだ。

そもそもイエスは貧しくない。確かに、飼い葉桶の中で生まれたが、それは場所がなかったため。加えて三博士が宝箱を持って来た。宝箱の大きさを考えてみよ。らくだで運ぶのだ。そして金と乳香と没薬を捧げた。金の量を考えてみよ。数十グラム?乳香も没薬も高級品だ。ローマ兵はイエスの着物を争って奪い合った。なぜ?彼の下着(われわれのイメージするものとは異なる)は一枚織り、これは高級品だ。よく繁栄を言うと非難する向きがあるが、彼らはまずイエスを非難すべきであろう。イエスは富んでいたのだ。私たちも同じ。

わたしのものはすべてあなたのものだ。-Luke 15:31

宗教的価値観から解かれよ!宗教の霊から離れよ!主は私たちに絹を着せて下さる(Eze 16:13)。私たちはすでに富んでいるのだ。それが天のサブスタンス。これが実体化されるプロセスは時間の中で現出する。ポイントは、世の方法によらないこと、富に使えるのではなく、富を支配すること。宝くじに当選して破滅する人がいるが、彼らはマモンの餌食になったのだ。われわれはマモンを支配するのだ。誰もあえて北朝鮮の紙幣など欲しがらないであろう。が、そこに暮らすためには必要だ。私たちはこの世のものではないが、この世におかれている。ゆえに円とかドルなどは紙切れに過ぎないが、必要なのだ。便宜として。北朝鮮紙幣をいくら集めたとて、人生安泰とは言えないように、円やドルも同じ。みな欺かれているのだ。私たちはちょうど縄文時代にタイムワープした21世紀人のようなもの。縄文時代では貝殻や石がカネであった。が、貝殻や石に身を預けることなどはナンセンセスと分かるであろう。

神の御心はどこにあるのか。新創造だ。それがいかなるものであるか、イエスは実証された。私たちはそのイエスと天に座している。自分のアイデンティティーと居場所を忘れることなかれ。地べたを這いずり回るような人生はもうやめよ。でも、私は生きるだけで精一杯なんです・・・。ああ、いつになったら気づくのか。あなたはそう信じているではないか。だからそうなっている!マインドセットをシフトせよ!イエスは男だけで五千人を五つのパンと二匹の魚で養えるお方。弟子たちも二回も物理的に目撃しながら、悟らなかった。いわんや、私たちをや、と言わないように。私たちのうちには真理の御霊がおられるのだ!この方はイエスの言葉とわざを思い起こさせ、イエスを栄光化するお方。そもそも信仰自体もスーパーナチュラル。自分でできると思うなって。そもそも。できると思っているから、まだ足りないとか、強くないとか、ブツブツ・・・。それはただ聖霊によるのだ!

神による癒しと医学

先日のメッセを聞かれた方からの質問。

Dr.Lukeは医学を否定するのか?

どうもニッポンキリスト教はこういったレベルの質問をしたがる人がいるようだが、あえて回答すれば、否、です。医学は一般恩恵として信仰の有無によらず誰でも、カネさえ払えば、最新の医学を享受できる。対して、神の癒しは特別恩恵。これは信仰が必要。ある種のスーパーパワーとしての癒しの賜物によれば、受ける側に必ずしも信仰がなくても、癒しは起きる。

問題は、医学を神よりも権威あるものとすること。医者の診断を御言葉よりも高く挙げること。最近では医者を二股かけて、いわゆるセコンンド・オピニオンを求める傾向もあるが、「先生にみなお任せします」は賢い患者の姿勢とは言えない。FBで有名な内海聡医師(ご自分で「キチガイ医」と自嘲気味に自称している)も抗がん剤が元々は毒ガスのイペリットから生成されたものであり、ナースは防護服を着て扱うシロモロであるとか、厚労省の役人も猛毒であることを認めていることなどを暴露している。最近では病院に行くと殺される、とまで・・・・。

まあ、医者としては患者が何かを訴えてきたら、それなりの診断名をつけて「安心」させてやる必要があるのだ。診断名をつけたら、治療が必要なわけで、もっとも手軽なのがクスリ。かくして製薬会社と医療機器企業、そして大学、学界、加えて官界・政界の医学村ができているわけ。今、もっとも儲かるのが抗がん剤なのだ。ちなみに、かつて東大内科の名医と誉れ高い冲中教授が退官するとき、教授在任中誤診率を公表したことがある。その数字は、14.2%!これに対して、素人は、ええ、そんなに高いの!?と驚き、専門家は、ええ、そんなに低いの!?と驚いたという逸話が残されている・・・。

信仰が持てないならば、どんどん一般恩恵としての医学に頼ったらよろしい。極私的にも、かつては、祈る前にさっさと病院で検査してもらえというスタンスであったし、メッセでもそう語っていた。が、今は、まず祈る。医学によるにせよ、名医に導かれるようにと。これは摂理による神の介入。対して神の癒しは直接的介入なのだ。すべてはあなた次第。Xさん、これでよろしいでしょうか?

癒しの現れの差は何によるか

この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである。-Matt 13:15

霊的領域においてはすでに「イエスの打たれた傷により癒された」。これが真理、サブスタンス。このサブスタンスを得て、自分の物理的身体において立証すること、これがサブスタンスの実体化。すでに書いたが、ウォッチマン・ニーは、祈りが叶えられることは二段階からなると説いている。まず霊的にサブスタンスを把握する、つまり霊的にゲットする。次に物理的にそれを所有する。霊的にゲットするために重要なのは霊だ。昨日のご婦人のようにマインドを経由せず、直にレーマが霊にタッチするとき、それは光となり、信仰となる。それが得られるならば、あとは感謝と賛美で水を注いで、そのサブスタンスを育てる。すると神の時と方法において、それが実体化される。

信仰は、神は必ず癒して下さるだろう、ではない!これは希望であり、願いだ。信仰は、すでに得た、つまり今、ここで、だ。永遠の現在におけるサブスタンスが、時系列の中にいる私たちのNOWに切り込むのだ。二千年前の事実が時空間を超えて、私のものとなる。つまり元々信仰はスーパーナチュラル。かつての私もそうだったが、いわゆる金粉が舞うことや、しるし・不思議に対して偏見をいだき、それらは低級なもの、自分はもっと深いものを求めているとか主張する人々はとんでもない勘違いをしている。霊の再生や、神との交わり、魂の造り変えなど、それ自体がスーパーナチュラル。自分の聖書の知識や経験を得れば得るほど、人は誇り高ぶり、マインドを肥厚化する。これがこのマタイの節にある「鈍くなり」の意味だ。Strongによるとこうある:

pakh-oo'-no
From a derivative of G4078 (meaning thick); to thicken, that is, (by implication) to fatten (figuratively stupefy or render callous): - wax gross.

厚くワックスを塗られていること。まさにマインドが肥厚化することだ。肌にも皮脂がベッタリだと、ローションを塗っても浸透しない。まず厚く積もった皮脂を除く必要があるのだ。ここでのポイントは、自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の心で悟り、悔い改めること。"自分の"が鍵だ。私のメッセを聞いて分かったツモリになっても、無意味だ。あなたが自分の霊で掴む必要がある。この意味で受動的な人はダメ。ワーシップも手を上げ、声を上げ、自分の内側から捧げる必要がある。天の国は激しく襲うのだ。霊的には図々しくなる方がよろしい。ワーシップの中におられる霊に自ら叫び、自ら手を伸ばして掴むこと。この節の「悔い改め」と訳された単語は普通の悔い改め(メタノイヤ)ではない。"epistrephō"であり、Thayerによれば、

Thayer Definition:
1) transitively
 1a) to turn to
  1a1) to the worship of the true God
 1b) to cause to return, to bring back
  1b1) to the love and obedience of God
  1b2) to the love for the children
  1b3) to love wisdom and righteousness

神への賛美に向き直ること、だ。自分から目を離し、神へと向き変えること。癒しを受けた人の証を聞くとき、重要な共通点が見られる。それは自分を忘れている時に癒しが起きていることだ。ワーシップなり御言葉なりに夢中になって、自分の症状や病状を忘れている時、勝手に何かが起きる。本人もそれが何かは分からない。ところが気づいてみると、苦痛や痛みが消えてしまっている。自分の症状を見つめて、いつ癒されるか、まだか、まだか、とやっている人は・・・。

ポイントが分かるだろうか?エピストレフォーするとき、神の霊が働き、デュナミスが流れ込むのだ。マインドが自意識ではなく、神意識になるとき、神の霊と共鳴し、魂も体も天と共振する。この時、神の国のサブスタンスが実体化される。五感に基づく自分から離れる時間が積もるに比例して神のわざは進む。それは神の栄光の中に入っている時間だ。神による造り変え(トランスフォーメーション)も、癒しも、必要の満たしも、すべては神の臨在と栄光の中でなされるのだ(2Cor 3:18;Phil 4:19)。前にも書いたが、神の栄光はカボド、それは重さ。神に触れられることはヘビーなのだ。

全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。
喜びをもって主に仕えよ。歌いつつ、そのみ前にきたれ。
主こそ神であることを知れ。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である。
感謝しつつ、その門に入り、ほめたたえつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、そのみ名をほめまつれ。
主は恵みふかく、そのいつくしみはかぎりなく、そのまことはよろず代に及ぶからである。-Ps 100:1-5

追記:ちょうどピッタリのクリップを見つけた。彼は言う、すべてのシーズンは神との出会いから始まる。神の栄光をもたらし、トランセンド・ユアセルフ、自分を越える経験に入る。それが信仰であり、自分の行いではなく、安息を意味する。そのとき神が何かをなさる、と。(16m30sくらいから)

-Bishop Gary Oliver hosts Apostle Renny McLean

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