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Category: 信仰

フェイスの覚醒-「見える」ことと「ある」ことは別次元

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現代物理の最先端では、宇宙は10次元の弦、ないし11次元の膜構造であるという。いわゆる超弦理論。われわれが五感で感知できるのは3次元(いわゆる空 間)と1次元(時間)だけ。その他の次元はいわば"丸まって"いる。これをカラビーヤウ空間という。つまりわれわれの五感で検出できない世界は、この物理 的世界においてすら、限りなく"ある"のだ!ちなみに聖書はすでに超弦理論をBC千年に説いている:

その響き(原語は弦)は全地に/その言葉は世界の果てに向かう。-詩編19編5節

最近話題のダークマターもそうだ。この存在は、電磁気学的反応をしないために、観測できない。だから暗黒物質。しかし、それは、ある。というか、ある、と しないと、目に見える現象が説明できないわけ。われわれのボディや世界を構成するいわゆる物質は、なんと5%、27%がダークマターで、68%はダークエ ナジー。つまり私たちは自然界のごく一部を見て、触って、味わって、感じて、聞いているに過ぎない。

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いわんや、霊的世界をや、だ。それは五感や通常のマインドでは検出できない。光は目、音は耳で・・・、霊は霊によるのだ。しかし、霊が死んでいる人にとっ ては霊的世界? はあ? そんなものはムーの世界だろうに・・・。あるいは大川隆法の世界? いや、ある意味、彼らやニューエイジの方がスピリチャルな世 界を知って、経験している。アカデミズムは言わずもがな、キリスト教もオツムの世界に閉じ籠って、空理空転現象を起こしている。本屋でも霊的に魅力のあ る、あるいは食欲をそそられる本はほとんどない。ジューシーさの抜けた筋張ったステーキのようなものばかり・・・。つまりリクツだけ・・・。

霊的世界は元々はジューシーなのだ。ナチュラル・マインドがそのジューシーさをこぼしているに過ぎない。ジーザスを見てみよ。その人柄もわざもなんとジューシーなことか! そそられる。あることと、味わうこと。これはまったく別のこと。ジーザスも言われたー

だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。-マタイ13章13節

見えない世界を見る。聞こえない声を聞く。これがフェイス。映画『スターウォーズ』の「フォースの覚醒」。まことにコレが必要なのだ。ただし、フォースではなく、フェイス。ロゴスの領域を脱して、デュナミスの領域に入ること。フェイスを使え! それは神の霊のバイブレーションに共振すること。

それがフェイスの覚醒だ。

神の国はロゴスにではなく、デゥナミスにある

キリスト教という業界ではしばしば不毛な神学論争なるものが展開される。有名どころでは「カルヴァン主義対アルミニウス主義」とか、半ペラギウス主 義がどうのこうの・・・とか。はあ、自然科学系の小生にとってはほとんど小学生の言い合いとしか・・・、あ、怒られるなぁ・・・。

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これ、佐藤優氏も言っているが、認識論の問題に過ぎない。リアリティーのモデルがいわゆるセオリーであって、この図にあるようにリンゴが落ちるというリア リティーを、いかに落ちるか、つまり時間と空間の関係式で記述したものがニュートンの運動方程式であり、引力の法則だ。その数式をいじくるのがいわゆる理 論物理学者。リアリティーにタッチしてあれこれ実験するのが実験物理学者。いずれにしろ、彼らは物理的サブスタンスを対象としている。

人文系になると人間の精神活動などを対象とし、社会科学系は社会システムを対象とする。これらはわれわれの体の五感と魂(知・情・意)で観測できる領域にすぎない。

対して聖書が対象とするのは霊的領域であり、霊的サブスタンスである。その領域にもニュートンの発見した自然界と同様の霊的法則がある。ローマ書やガラテ ヤ書にくわしいが、その法則を知ることはひとつのこと。その法則を使う、あるいは法則に従うことは別のことだ。物理の運動法則を極めた天才的物理学者で も、体操選手のようにE難度の実技ができるとは限らない。

ロゴスの世界を抜けて、リアリティーにタッチすること。霊的サブスタンスをゲットすること。これがフェイス。まことに

今、フェイスとは願うことのサブスタンス、見えないことの立証である。ヘブル書11章1節

わけのわからないナントカ神学やカントカ神学を極めたところで、実技ができなければ無意味。理論物理学者は実験できなくても食っていけるが、フェイスはサ ブスタンスをゲットしなければ絵に描いた餅、まったくナンセンス。パリサイ人などはリクツの世界の住人に過ぎなかったが、ジーザスは神の国の実践者だった のだ。だから彼らは嫉妬した。ジーザスは神の国をこの物理手時空間、五感の領域においてデモンストレーションしたからだ。まことに

神の国は言(ロゴス)の中ではなく、力(デュナミス)にある。-1コリント4章20節

オツムからのエクソダス。それはナチュラル・マインドを脱ぎ捨てること。かくしてパウロは奨めている:

むしろ〔自らの〕思いを刷新することによって形造り直され・・・ローマ書12章2節(岩波訳)

マインドのメタモルフォーシス(再構成)が必要となるのだ。聖書をナチュラル・マインドで読む限り、神の国はあなたの、そして私のものとはならない。まこ とにマインドの取り扱いこそが、神の国を味わうカギなのだ! クリスチャンはすでにキリストのマインドを有しているのだから、それがナチュラル・マインド によって阻害されなければ、その可能性は無限。ジーザスは言った

信じる者はわたしと同じわざをし、さらに大いなるわざをする。わたしが父のもとに行くからである。-ヨハネ14章12節

WOW! 物理的時空間を超え、その因果関係や自然法則を超越するフェイスにはすべてが可能なのだ! これがわれわれの有するポテンシャルだ。

Dr.Lukeのワンショット-アダムとエバの奥義

Dr.Lukeのワンショット-フェイスの覚醒

Dr.Lukeのワンショット-エクレシアの真理

新しい生命現象を見ること

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前にLAのガイドブックを知っていることと、LAを見ることとは違うと書いた。ガイドブックを隅から隅まで知っていたところで、現地を観ていなければナン センスとだれもが分かる。ところが霊的世界になるとこれが違ってくるのだ。聖書を実によく知っている人々がいる。あるいは解き明かしと称する作業が得意な 人々も多い。が、彼らの言葉を聞くと、実際に現地を観ているのか、ガイドブックを知っているだけなのか、これはLAに行ったかどうかが明白であるように、分かっ てしまう。

人類はアダムの堕罪以降、霊が死んで、霊的領域にタッチすることができなくなった。そのため神から切り離されて、魂(思い・感情・意志)を肥大化させて、特に知性によって世界を把握し、内的に構築したそれぞれの世界モデルに従って生きるようになった。魂と肉体の五感がカバーできる領域は物理的世界のみであり、霊的世界はその能力によって観測することはできない。つまりいくら聖書を知っていても、霊的領域を見て、それにタッチすることは決してできないのだ。だから、霊のアクティベーションが要る。霊は霊的サブスタンスにタッチするセンサーであり、われわれのアイデンティティーそのものである。私たちは肉体でもなく、魂でもない。霊である。そして私たちの霊は神の種から生まれた。それは神聖であり、罪や世や敵が触れることはできない。神から生まれたもの、それは神である。

神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。-1John 3:9

ここの訳も実は大いなる罠になる。クリスチャンは神から生まれた、ゆえに罪を犯さすことはできない(原語の意味)。はあ? 私たちは罪を犯しているではないか。またヨハネ自身も罪がないと言えば偽り者だと言っているではないか!(1John 1:8) こうして自分はほんとに救われているのかどうか、葛藤に落ちるのだ。これが日本語で考えてはならないと私が口を酸っぱくして言う理由である。「神から生まれた人」と訳するのが罠。原語では"pas"、「神から生まれたすべての存在」とするのが正解。また「生まれた」はgennao、Strongによればprocreate、その意味は「父から生成される」の意味だ。

要するに、何が生成されたわけ? それは霊だ。神は霊である(John 3:6)。霊から生まれるのは霊である(John 4:24)。それは神の種、すなわちDNAを有する。これが罪を犯すことはできないのだ。私たちの体に罪(Sin)が内住している現経綸では、体と魂はいくらでも罪を犯し得る。これが肉(flesh)。が、私たちの真のアイデンティティーは体と魂ではない! 霊である。その霊は分与された神の霊である(1John 4:13)。See? つまり私たちは神である。神になるのではない、すでに神である。アイデンティティーをどこに置くのか? これがカギ。

かくして教会(この用語はすでに手垢が付きすぎている)、エクレシアは単なる罪ゆるされたあわれな罪人の集合体ではない。そのように信じる者にとってはそのとおりになるだろう。それがその人のフェイスだから。それがいわゆるキリスト教会。再度、繰り返すが、エクレシアの定義はこれだ。

この教会はキリストの体、すべてのものをすべてのものの中に満たす方の充満である。-Eph 1:23(岩波訳)

これを「キリストが満ちているところ」とするから致命的にズレると前にも指摘した。エクレシアはキリストの充満。それは何? そう、キリストだ。何故? キリストの充満だから。キリストが満ちているところではない! よく読むように。キリストの充満、つまりキリスト。何か教会と称するがあって、そこにキリストが満ちていると考える人、あなたはとんでもなく読み違いをしている。充満とは場ではない。Strongはrepletion or completionと言う。それは充満であり、完成である。それは新生命体、ニュクリーチャー、新しい創造、まったく新しい種である! つまり神属なのだ。父なる神はキリストの傷から流れた血と水により、御霊からそれを生み出したのだ。それはキリスト教会でもないし、キリスト教でもない。iPS現象やSTAP現象のようなひとつの新しい生命現象である!

神は人間性において現れる。これが敬虔(godliness)の奥義(1Tim 3:16)。真に霊によって見た者は幸いである。それは各人のマインドのトランスペアレンシー(透過性)にかかっているのだ。

God's Names-ちょっといいクリップ

マインドフルネス-思いの霊において新しくされる

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ここは邦語訳では「心の底から」とか、「心の深みまで」とか訳されるのがふつうである。岩波訳は「あなたがたの〔思念を規定する、神の〕霊でもって新しくされ」となっている。いつも言っているが、日本語で真理を理解してはならない。ギリシャ語を当たるのが一番だが(これも写本の問題があるが・・・)、KJVでは

And be renewed in the spirit of your mind; -Eph 4:23

つまり、思い(nous)の霊(pneuma)において新しくされる、だ。ここでポイントは、心と思い(マインド)は異なること。このあたりが日本語のあいまいさで、なんとなく分かったつもりになるだけの人がほとんど。私の著書『神の新創造-聖書が啓示する自然法則を超えるマインドのパワー』でも指摘したが、マインドは霊的領域と物理的領域の接点である。霊的な存在は私たちのマインドに働きかけることができるのだ。

同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。-Gal 4:3

この諸霊(stoicheion)は新改訳では「世の教え」、岩波訳では「宇宙の諸力」と訳されている。それは霊的体系であり、私たちのマインドにアイデアとしてまかれ、その想念の種は膨らみ、体系化され、思想となり、共産思想のように政治体制や国家をすら生み出す。つまり霊はマインドの深くに侵入し、時に浸食することすらある。だから、霊的な「死ね」という声を聴いて、自殺する人々も出るのだ。

神の霊も同じように、私たちのマインドに入り込みたい。神の霊によってドライブされたマインドは、すなわちキリストのマインドである。私たちはすでにキリストのマインドを持っているのであるが(1Cor 2:16)、それは神の霊、すなわち聖霊によってエネルギーを得て、ドライブされる。私たちのマインドが肉によってドライブされるとき、すなわち肉の思いは神に敵対する(Rom 8:6-7)。ゆえに私たちのマインドをドライブする源は神の霊であるべきなのだ。

では、自分が今、肉によってドライブされているのか、霊によってドライブされているのか、どうやって知るのか。単純である。

肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。-Rom 8:6

死の感覚を覚えるのか、いのちと平安の感覚を覚えるのか。私たちの体は本来中立である。義の武器ともなり、不義の武器ともなる(Rom 6:12-13)。注意すべきは、パウロの述べる肉(flesh)は、別に肉体のことだけを指すのではない。神の霊から分離された肉体と魂(思い・感情・意志)のあり方を言うのである。マインドは肉体の大脳(ブレイン)と同期している。が、大脳の機能のみではない。先にも書いたが、想念はブレインを超えて存在している。だから、霊の領域にタッチできる人はその想念を受信できるのだ。イエスはよく人の考えをご自分の霊で見抜かれた。

かくしてこの世の体系は人々の想念の体系でもある。私は時に本屋などで、うるさいと感じることがある。別に雑踏や騒音がうるさいわけではない。そこには想念が渦巻いているのだ。ちょうど客引きから声をかけられるように、アレコレの本からそのような誘いを受ける。かくして世の想念を受信し、それを思いめぐらしたりするならば、たちまち死の感覚を覚えるであろう。が、ワーシップや聖書の言葉に触れ、主を想いめぐらすとき、内側は甘く、温められて、いのちと平安、そして愛と希望とフェイスが沸き上がるのを感じることができる。ゆえにパウロはこう勧めている:

ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。-2Tim 2:8

この「思っていなさい」の原語はμνημονεύω、Thayerによれば、to be mindful of、つまり思いを満たすことである。このとき、神の霊は私たちのマインドにペネトレート、浸透する。要するに私たちのマインドは神の霊のペネトレーションを受けるのだ。こうして私たちの魂(Soul)、つまり思い・感情・意志はキリストのそれを反映するようになる。

もっと言えば、メッセでも語ったが、私たちのハードウェアとしての人間性にキリストのソフトウエアがインストールされるようなものだ。ジーザスはその人間性から神を現された。私たちも同じ。私たちの人間性を通して、神が現れるようになる。WOW!これが敬虔の奥義(1Tim 3:16)。「敬虔」なる単語はよく分からないが、英語ではgodliness、原語はeusebeia、簡単に言えば神性の表現である。神は人間性を通してご自身を現される。これがエクレシア、キリストの復活のいのちを吹き込まれた新生命体であり、神の新創造だ(⇒神のエコノミー)。

最近、欧米ではマインドフルネスなる用語をよく聞くが、問題は何によってマインドフルにするか? その答えは・・・ご自分でどうぞcool

受動性の病理

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先に、観てるだけのヤツはバカ、とやや挑発的な記事をものしたが、実は霊的経験においては受動性は大きな罠となるのだ。受動性は混乱している人たちや、次から次へと困難や病気を抱え込む人たちの際立った特徴である。簡単に言えば、あなた任せ、自己責任放棄の姿勢。

神は当初、アダムにこう言われた、

神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」-Gen 1:28

統治せよ!と。これは人類に対する神の原初的委任であり、人類の原初的責任であった。アダムは罪によりこれを喪失した。が、イエスはこれを再獲得された。ところが、これを放棄しているいわゆるクリスチャンがあまりにも多いのだ。これはきわめて重要な霊的病理と言える。

・・・というわけで、詳細はこちらの記事をどうぞ。

-受動性の問題について

 

英国キングダム・フェイス・キャンプ’02ファイナル

ディスコか、クラブの様相。

 

英国Kingdom Faith 93年

この映像、古き懐かしき、英国Kingdom Faith Churchの映像。これがいわゆるウイークデイの祈り会。コリンが語っている、沈黙している人は真理を拒絶している、口を開け、と。

これはキャンプの模様。納屋、下にはヤギさんのアレが落ちていた。しかし、素朴、きよらかな臨在が満ちている・・・・。

セレブレーションとはジーザスのライブ

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このクリップ、そのうち字幕をつけてくれると思うが、とても重要なこと。不思議なものでセレブにいる人々が何を思っているか、実はメッセージをしている側は手に取るように分かる。自分の想念は自分だけが知ること、と思うと実はこれが違う。想念は個人の大脳に浮遊しているだけではない。霊の領域においてそれは漂い、また人の霊に反映するのだ。だから霊の領域を見ることができる人にはすべてが見える。

イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。」-Mark 2:8

私たちのセレブにおいてはすべての人が口を開くことを奨励している。つまり霊的領域にすべての人が自らの意志を用いて参加すること。ところがこれがある種の人々にはつまづきとなるのだ。私はちゃんとここに参加しているのに、なんで参加していないと言われるのか分からないとか、自分はルークさんの祈りにアーメンしているのだから、自分が祈る必要はないとか・・・なんとかかんとか・・・・。

嗚呼、愚かなものだ。観てるだけのヤツはバカ。宴会に来て、ごちそうが山ほど提供されているのに、自分は見てるだけ。ルークさんが食べているのをアーメンしているから、それで十分だと誰が言うであろうか? いや、別に自分で手を出して食べたくない人はそれでけっこう。ご勝手にどうぞ。祈りも同じ。祈ることが苦痛だとか、何をどう祈ってよいのか分からないとか、口を開けと言われるとプレッシャーとか感じる人は、他に行けばよろしい。チンマリとお勤めするだけのいわゆる礼拝はいくらでもある。

はっきりと言うが、不平や不満の想念を抱く人はその場を汚している。口に出さずともそれは霊の領域にはすべて反映しているから。宴会に来て、口を開いて、自ら手を伸ばして食べよと言われることがプレッシャーと感じる・・・。自分は見てるだけでいい・・・。はあ??? 嗚呼、これほどに宗教の霊は彼らを拘束しているのだ。そして彼らのマインドを閉ざしている。彼らも自分のマインドに去来する想念を自分の感情でとらえ、ぶつぶつ、あれこれ、どううのこうの・・・。

矢沢のライブに参加したら、みなが「永ちゃん!永ちゃん!永ちゃん!」と盛り上がる。その場で下向いて、何だこの人たちは?とか思う人はそもそも来るべきではないでしょう? セレブも同じ。「ジーザス!ジーザス!ジーザス!」と盛り上がるのだ。おいおい、礼拝を矢沢のライブといっしょにするとはけしからん、とか言われる宗教の徒もいるであろう。自分は静かに礼拝したいとか、下向いて黙想していたいとか思う人は、はっきりと言うが来るところを間違っている。ついでに言えば、ダビデの裸踊りを冷ややかに見下したミカルは不妊の女となった。いのちを生めなくなったのだ。

繰り返すが、私たちはニッポンキリスト教の儀式を行っているのではない。ジーザスのライブに参加しているのだ。あるいはジーザスのパーティーである。ジーザスの復活の勝利を祝うのだ。セレブレーションとは祝賀会であり、凱旋記念日だ。祝え、叫べ、食べよ! 宗教からエクソダスせよ! 神の国は激しく襲われているのだから!

わたしたちの力の神に向かって喜び歌い/ヤコブの神に向かって喜びの叫びをあげよ。
ほめ歌を高くうたい、太鼓を打ち鳴らし/琴と竪琴を美しく奏でよ。
角笛を吹き鳴らせ/新月、満月、わたしたちの祭りの日に。-Ps 81:1-3

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