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Category: 信仰

背教の道をあえて選ぶアメリカ

2016年、GET BACKの年

年初、私はこうメッセージした。で、なんとまたもシンクロニシティ。Bill Winstonのパワフルなプロフェティック・メッセージ、お薦め!"2016 ► The Year of Recompense"

マトリックスからの解放-マインドのアンロック

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アダムの罪の結果、人類に罪と死が入った(Rom 5:12)。これがアダム系旧創造の人類の実存的状況。イエスは最後のアダムとしてご自分の死によってその系列を終わらせた。つまり彼はターミネーターであった。同時に復活によって第二の人としてキリスト系の新しい人類を生み出した。つまり彼はクリエイターであった。このとき、信じる者、すなわちキリストの死と復活に包括される者は義とされ、かついのちを得た。彼らはイエスがそうであったように復活である。新しい創造、ニュー・クリーチャー。アダムが何らの自己努力あるいは自己行為によらず罪と死を得たように、われわれ信じる者は何らの自己努力あるいは自己行為によらず義といのちを得た。これが救いである!

われわれは単数形の罪(Sin)から解かれており(Rom 6:7)、その結果である病気からも解かれている。われわれはイエスの傷により癒されたのである。が、必ず質問や異議を唱える者が出る。病気が癒されずに死ぬ人もいるではないか!彼らには信仰がないとでも言うのかぁ!・・・と。そう、彼らには信仰はあるかもだが、フェイスはない。なぜ?フェイスは願うことのサブスタンスだから(Heb 11:1)。つまり癒しを願うのであれば、フェイスは癒しそのものなのだ。これをトンデモ勘違いしているに過ぎない。自分の大いなる勘違いを自分で告発しているわけ。つまりサルが鏡を見て憤っているのと同じだ。しかもその滑稽さに気がついていないのが致命的だ。

人はみなそれぞれのマインドが作り出したマトリックスの中に生きている。自分が真実とか事実と思っていることは自分のマインドの実であり、FAKEである。神の言葉のみがリアリティーなのだ!聖書を古文書とかサイエンスがまだ十分に発達していなかった時代の迷信とか思っている者はすでに騙されている。神がいないとか、人はサルから進化したとか、これなどは究極のマトリックスであるが、実はクリスチャンも大差ない。自分の悩み・葛藤・病気・貧困・性格・家族・友人・職場・・・それぞれのマトリックスに絡め取られて生きている。だから、クリスチャンになってもさほど生きる喜びを堪能できない。むしろ、敵がクリスチャンを狙っているために、かえってトラブルが多くなり、その中でもがく者たちが多いのが実情。加えてニッポンキリスト教という究極のマトリックスにはまってクルシチャンと化す。

私は30年近く花粉症というマトリックスにはめられていた。昨年、突如そのマトリックスから脱出したが、今年はどうかなと、正直内心でびくびくしていたことを告白しなくてはならない。結果はどうか。結局、クスリはまったく飲まず。そう、出なかった!確かに花粉があることは鼻がムズムズするので分かる。それは異物の侵入によるナチュラルな生体反応。が、それ以上に進まない。もしそれを症状として受け入れるならば、多分あのマトリックスに戻ることであろう。が、私はフェイスの領域に生きている。自分が30年近く花粉症というカプセル空間に生きていたことがよくわかる。それはフェイクであり、マトリックスだったのだ!これは花粉症というひとつの例にすぎない。私たちの在り方のあらゆる領域において、私たちはマトリックスに騙されている可能性があるのだ。それを抜けるためには?そう、マインドのアンロック。霊によるフェイスの覚醒。フェイスを得たら語れ!何度も繰り返している通りだ。

神がキリストにあってわれわれのために成し遂げてくださったことの広大さに、最近は圧倒されている。おお、何ゆえに神はこれほどまでに・・・・と。まことにパウロの祈りを実感として受け止めることができるのだ。

どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、理解力の目を開いてくださるように。
そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。
また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。-Eph 1:17-19

まずはクリスチャンにとっては一番狡猾なマトリックスであるニッポンキリスト教からの解放が先決である。が、不思議なもので、今回の千葉大生による誘拐の被害者の女子中学生が、逃げることができる機会が何度もありながら、あえてそこにとどまったのと同じことをしてる人がけっこう多いのだ。彼らは言うであろう、私のこの状況はリアルであり、私の病気もリアルである!と。かえって私がそれはフェイクだというと彼らは怒り出すのである。まことに不可解極まるのだが・・・。なぜ、女子中学生は逃げなかったのだ?それぞれで考えてくださいな!

イエスによる祝福の実際-宗教の霊から解かれよ!

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心の貧しい人とは、人に誇るべき何ものも持っていない人であろう。金もない、地位もない、体も弱い、知識もない、おのれにたのむ何もないがゆえに、ひたすら謙遜に、神の前に頭を垂れている人たちである。イエスのまなざしは、いつもこうした弱い人々に向けられていた。イエスの愛は、いつもこうした謙遜な人間たちに注がれていた。(三浦綾子・新約聖書入門より)

私はこの手の「信仰」は好まないと繰り返しメッセでも語っている。果たしてイエスはこのような陰気臭い雰囲気に囲まれていたのだろうか?アブソリュートリー・ノー。第一に「心が貧しい」は誤訳。"Poor in spirit"、つまり「霊が貧しい」である。この誤訳は致命的だ。そこから三浦綾子的自己憐憫ワールドが育つ。それにこのような人々がしばしば頑な心を有していることは、ちょっと福祉や身障者の現場を知っている人であれば自明のこと。それが裏返ると、オトタケ君のような倒錯も起きてくるのだ。

イエスの周囲にはつねに喜びの感情、明るい雰囲気、活気と健全さが包んでいたのだ。要するに晴れやかだった!フェイスのある者は癒され、物質的にも豊かであった。第一に、何度も書いているが、イエスが誕生の際、東方の賢者たち(3人ではないから注意!キリスト教の刷り込みに欺かれないこと)によって捧げられたゴールド、没薬、乳香の価値を考えてみよ!

第二の例。イエスの最初のしるしはカナの結婚においてなされた。そこにあったのは6つのかめ。一つ当たり2-3メトレテス入る。で、1メトレテス=39リットルだ。つまりひとつのカメが80-100リットルだ。イエスが水をワインに変えたが、それは高級ワイン。考えてみよ。皆さんはどのクラスのワインを飲まれるだろうか?1本3,000円?10,000円?

ちなみにロマネコンティは124万円!一番安いのでコルトンの9万円だ。さあ、算数のお時間。100リットルのカメが6つ。その中に満杯の高級ワインが入ってます。全体でいくらになりますか?これだけのワインをその婚礼の出席者がみな飲んじゃった・・・てなことはあり得ない。つまりこのワインは新婚夫婦に対するイエスのギフトだったのだ!その価値は!?

第三に、旧約でもエリシャは夫の残した借金のかたに子供を取られそうな寡婦に何をしたであろうか?残っているのは壺の底のわずかな油。近所からありたっけの空の壺を借りてきて、それに油を注ぐと出るわ出るわ。結局、空の壺がなくなった時点で止まったが、もしまだ壺があれば!?かくしてようやく借金を返せた・・・のではなく、借金を返してまだ余っていた。その余りで余生をくらせるだろうとエリシャは宣言したのだ!これが神の豊かさ!五つのパンと二匹の魚はあえて触れるまでもないだろう・・・。

宗教の霊から解かれよ!神は豊かなお方。われわれはその神から生まれた神の子供たち。自分を空にすればするほど、神は油や高級ワインで満たしてくださるのだ!変な神学を詰め込むな!まことに霊の貧しい、つまり霊の空っぽな者は幸いである!

愛する者よ、あなたの魂が栄えているように、あなたがすべての面で栄え、健康であるようにと祈っています。-3John 1:2

しかも、念押し。イエスは昨日も今日も永遠に変わらないお方!あとはあなたのフェイスに任されるわけcool

神の国の分別の原則

持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。-Matt 13:12

同じ聖書を読んでいても、ある人とある人はまったく別の受け取り方をする。この聖句、ある人は「ハレルヤ、感謝します!」と叫び、ある人は憤りを覚える。「神は平等のはずだあ!」と。癒しについても、イエスの打たれた傷によりわれわれは癒されたと語ると、ある人は「主よ、あなたの打たれた傷を感謝します!」と賛美を捧げ、ある人は鼻息を荒くして、「癒されないのは信仰がないというのかぁ!」と憤る。彼らの生きるリアリティーが全く異なるのだ。かくしてこのマタイの言葉が成就する。神の責任?アブソリュートリー・ノーだ!人の魂のマインドの歪みがその差を生むのだ。

日本基督教団のある牧師が私の本『神の新創造-聖書が啓示する自然法則を超えるマインドのパワー』をたまたま読まれたそうだ。で、その感想。こんな世界がほんとうにあるの???とややビックリしていたとか。・・・はあ、あなたにとっての聖書って何なの?とお聞きしたくなるが、これが現状。ちなみにこの牧師はレビ記の御言葉を引きつつ、憲法9条遵守を説教しているお方。いわゆるもろ左巻きの人。まあ、極私的には縁なき衆生とも思っていたが、神は案外こういった人々を霊的に覚醒されるかもしれない。私の物差しで測ってはならない。まことに

すべての道で主を認めよ、そうすれば主はあなたの道をまっすぐにされる。-箴言3:6

あなたの、そして私の道を決めるのは我々自身の口の言葉だ。まことに人は心にあることを口が語るとあるとおりだ。

死と生とは舌に支配される、これを愛する者はその実を食べる。-Prov 18:21

端的に言って、フェイスとはわれわれの口にあるのだ。そしてそれによってわれわれは分別されるのだ。

意識の扱い方-キリスト者と仏教徒-

FBで流れてきたこの記事にちょっとコメントした。

-仏教とキリスト教の共通項はどこでしょうか?

このBlogでも何度も指摘しているが、道元は『正法眼蔵-現成公案』にて書いている:

仏道をならふといふは,自己をならふなり。 自己をならふといふは,自己をわするるなり。自己をわするるといふは,万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは,自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

クリスチャンと禅者は、いのちと法の違いなのだ。われわれは旧創造のいのちではなく、新創造のいのちを得て、その新しいいのちの法に任せて生きる者たち だ。が、自己をわすれることにおいては共通する。イエスは、自己を否め、と言われた。これは自己疎外ではない。自分から意識が離れること、つまり心身脱落 すること。

すべての苦悩や葛藤は自意識から生まれることは誰もが納得であろう。善悪を知る知識の木の実を食べたアダム系人類の宿命だ。イエスはその旧人類を終わらせ た!そして復活し、キリスト系の新しい人類を生み出したのだ。仏教の救済は自己からの解放のレベルまで、残念ながら新しい創造はどんな修行をしても得られ ないのだ。それはGodのみが成し得るスーパーナチュラルな現象だ。

-意識の扱い方について-キリスト者と禅者の類似と相違-

 

恐れこそを恐れよ

これ、確か、アメリカの大統領の発言だったと思う。恐れとフェイスは互いに背反だとメッセでも語っている。完全な愛は恐れを取り除く。恐れる者には愛がまっとうされていない。この聖句、真に受ける必要がある。恐れる者には次々に問題や病が降りかかる。これ本当に不思議な事であり、厳粛な事。

昨日の大腸ガンの兄弟にとっては死の可能性はあるも、彼にとっては死のトゲはすでに抜かれてしまっている。フェイスが働いていることが彼との応答の中でわかる。彼には恐れがない。ニューエイジでは「引き寄せの法則」というが、恐れは確かにその対象を招き寄せるのである。ヨブが証言したとおりだ、自分の恐れていたことが降りかかった、と。それはフェイスの穴、アリの一穴ダムをも崩す。

主イエスの教えの中でもっとも繰り返されたこと、それは「恐れるな!」。はあ、人間は弱いものだから、恐れるのは当たり前でしょう・・・。はい、どうぞ、それにアーメンしてください。恐れはあなたを正当に支配するでしょう。あなたがその権限を恐れの霊に与えてしまったのだ。何度も言っているが、自分が同意した対象は自分の上に権威を行使する正当な権限を許すことになる。

フェイスによらない愛は罪だ。それはヒューマニズム。愛のないフェイスはむなしい(罪といっているのではない!)。すべてフェイスによらないことは罪なのだ。ゆえに愛によって働くフェイスが大切だとパウロは言う(Gal 5:6)。つまり愛が働きかつフェイスが働く、ならば恐れはまったくあるべきではない!恐れる人は自分を大事大事している人。彼らは自分を投げ出すことができない。ペテロのように舟から荒波に一歩を踏み出すことができない。自分の小さなコンフォートゾーンに閉じこもるのだ。恐れの霊はそのような人を格好のターゲットにする。霊的書物もよく読み、ポジティブコンフェッションとかもよく実行している。が、彼らの根底には恐れがある。ヨブと同じだ。

この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。-Job 1:5

恐れから出たものはどんなに信仰深く見えてもフェイクである。それには実効力がない。私たちの得た霊は恐れの霊ではなく、愛と力と健全な思いの霊である。健全な思いとは恐れから解放された思い。私たちのすべての言動は愛にある安息と平安から生み出されるべきものなのだ。

FBの会話から

ある同年輩の兄弟がこの3月の初旬に大腸ガンと診断された。すでにけっこう増長していたため、内視鏡では無理、腹腔鏡でオペすることになった。

彼の言でいわく、自分はクリスチャンなのでたとえこれで死んでも怖いことはない。主の元に行けるのだから・・・。

で、私、つい一言:おめでとうございます。私もパウロと同様に地上を去りたいのですが、まだ残れと言われてしまいまいした。

彼いわく:私はフルートを吹けるようになりたいので戻ってきますよw。

私、了解です(*^^)v

彼、I shall returnは古いので、I'll be back。

私、どっちも若い人たちには通じないかも(;'∀')

確かに死のトゲは抜かれているのだ!

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。-Phil 1:21

元気の秘訣-声を出すこと!

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私はメッセでも声を出せとしつこく進めている。それでもなお、沈黙する人はもうどうしようもない。ご勝手にどうぞだ。この記事はもちろん霊的なものではない。が、声を出すことが健康にとって重要であることを指摘する。ましてクリスチャンであれば声を出すことによる神の国の実現がどれほど重要であるか、わかるはずだ。

-元気の秘訣は“高音プレゼン”〔髙田明〕 第1回 声を出すことが前向きな自分をつくる

声を出すことによりマインドの中に幽閉された自分から解かれるのだ!フェイスは語ること。フェイスは行いによって全うされるのだ。

確かに高田氏、若い!

復活のデュナミスを味わえ!

メッセでも語ったが、イエスはラザロをよみがえらせるとき、すでに自分は復活であると宣言した(John 11:25)。はあ?イエスよ、あなたはまだ十字架についていないではありませんか?とナチュラルなマインドは考える。ノー!イエスはその後肉体をもって十字架につかれた。しかし神のサブスタンスとしてはすでに復活だったのだ!何度も言うが、フェイスは時空間を超える永遠のNOW!イエスはつねにフェイスによって生きていた。彼はクロノスではなく、カイロスに生きていたのだ。事実、

And all that dwell upon the earth shall worship him, whose names are not written in the book of life of the Lamb slain from the foundation of the world. -Rev 13:8

世界の基が置かれる時からほふられていた小羊の書に名の記されていない者は・・・が正解。いつも言うが日本語訳はよろしくない。世界の基が置かれる時にすでに小羊はほふられていたのだ!復活は別にイースターに起こったわけではない。それは単にイエスが肉体を持って復活された日であって、霊的リアリティーとしてはすでに彼は復活だったのだ!

私たちはそのキリストの死と復活に包括されて、死んで、復活した存在。これから未来において復活するのではない。すでに私たちも復活したのだ。Are you with me? その復活のパワー、デュナミスはどれほどのものであるかを知れとパウロは言う。デュナミスはダイナマイト、それは爆発するのだ!

また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。-Eph 1:19-21

われわれはこのキリストといっしょに天の座につかされているのだ(Eph 2:6)!まことにこれはスーパーナチュラル。そのデユナミスに与るカギは、自分を絶えず脱ぎ捨てること。脱皮だ。自分を大事大事している人は恐れの霊の餌食になる。おくびょうな者は神の国に入ることはできないのだ。

だから、古い人の会話を脱ぎ捨て、それは情欲の欺きによるものであり、思いの霊から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を着て、真理に基づいた義と真の聖なる生活を送るようにしなければなりません。-Eph 4:22-24(私訳)

情欲の欺きとは別に動物的欲求のことだけを言うのではない。先週のメッセでも語ったが、五感の欺きである。また邦語訳では「心の底から新たにされて」とあるが、これも違う。思いの霊が新たにされるである。われわれのマインドは霊から自立したがるが、そのマインドに霊が染み込むことを言うのだ。私たちのマインドは常に何か会話をしている。それが自分の言動に現れる。これが生き方である。つまりマインドに霊の浸透を受けて、そのアダム系の会話を改めることが新しい人を着ること。そのときキリストのマインドが私たちのマインドを支配するのだ。

正直に言うが、イースターを祭るって、ああ、この人は復活のパワーを知らないなあ、と分かってしまう。日々、瞬間瞬間が復活だ。それはスーパーナチュラルな五感を超えた世界の経験なのだ。WOW! そのとき、神のデュナミスをわれわれは経験する。それは内に仕掛けられたダイナマイト、スイッチを入れて自爆せよ!

 

TODAY'S CELEBRATION 【Mar 27, 2016】

タイトル復活の領域に生きる

聖書個所:2コリント4:13;2テモテ1:7;ヨハネ11:25など

4月3日のセレブ

 ・場所:エスカル会館2F会議室
 ・時間:1300-1700

WebKingdom Fellowship

YouTubeDr.Luke's KF_Channel

セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。

全国有名書店で発売中

 
Amazonに飛びます

イエスの誕生と死、そして復活が意味するものは何か?最初の人類アダムとエバの“失楽園”、ノアの箱舟、モーセによるエジプト脱出・・・数々の映画のテーマにもなる聖書の奇跡とイエスの生涯に新しい光をあてる。それらは現代人のわれわれとどんな関係があるのか?神は今もなお生きて働かれるのか?それを経験する鍵は?人類のロングセラー「聖書」の世界をよりあざやかにリアルなものとする挑戦的な書。

●11月に一般の100書店に配本され、2月に別の100書店に配本されました(⇒書店リスト)。また紀伊国屋では1年間常備されます。書店に直接注文していただけますと在庫を増やしてくれますので、よろしくです。こちらの注文表をお持ちください。なお、出版社の在庫があとわずかとなった模様です。

●面白い口コミがありました:聖書は既読ですが、モーゼが杖をついたら海が二つに割れたり、イエスが一つのパンで何百人の人を養ったりと、神話的な話として読んでいました。この本を読んでからは、神話や伝説ではなく、リアリティとして感じられるようになりました。
●読書メーター感想:読んでも意味がわからなかった聖書がなんとなくわかった。聖書の読み方が変わった。

温泉にて脱力とちょっと証を

1泊で強羅温泉に行っておりました。温泉は私にとってはなくてはならない存在。確かにフィジカルにして、五感の領域のものに過ぎないが、この肉体を持つ限り、そのメンテは必要なのだ。今回は面白い食を経験した。

箱根のはつ花の蕎麦。100%蕎麦+卵で打ってある細打ち蕎麦。触感が新鮮で甘い。けっこう人気の店のようで、かなり行列が。私はたまたまナビの案内に従ったのだが・・・。

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ホテルは強羅の山の上。曇ってきたと思ったらなんと雪が。それもさんさんと、雨脚ではなく、雪足が強くなってきた。やばい、車はノーマル。しかも急坂の山の上。と、思いつついるうちに、あたりは一面白くなってきてしまった。どうしよう・・・と、これがこれまでの私の思考パタン。

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で、思い出した。イエスは嵐に命じたのだった。雪の降りしきる外に向かって、イエスの名によって命じる、雪よやめ!と声を出して2回ほど。カミさんは怪訝そうな顔をしているが、カーテンを閉め、食事。小盛の多品目で楽しめる。10分ほどしてカーテンを開けてみると、おお、見事に雪がやんでいるではないか!・・・いやなに、単なるぐーぜん、グーゼン、偶然・・・。

前にも書いたかもしれないが、子供たちが小さい頃、夏休みに伊豆の白浜に泳ぎに行くとき台風が来て、一度はキャンセル。しかし夏休みも終り近くになり、最後のチャンスに出かけようとすると、またも台風。どうしよう・・・。祈ると、GO!と声がした。さらに英国のコリン・アーカートの証を思い出した。夏のフェイス・キャンプで雨が降り続いた際、彼は天候に命じたのだ。するとピーターバラ一体だけが雲に穴が開いて晴れた。TVでも珍しい現象として報道された。

で、私も、白浜よ、晴れよ、イエスの名によって命じる!と。そして伊豆に(内心恐る恐る)向かい始めたが、なにしろ台風に近づくので雨は激しさを増すばかり。家族はみな意気消沈。私もめげ出したが、メンツもあるのでとにかく進んだ。・・・で、白浜。おお、なんと真夏だ。太陽がギラギラ!雲が白浜の上空だけ抜けている!かくして真夏の海を楽しんで、みな真っ赤に焼けて一泊して帰路に。伊豆を上るとなんと豪雨。そんななかでフェミレスに入ると客と店員の目が一斉にわたしたちに・・・。そう、豪雨の中で私たちは真っ赤に日焼けしているのだ!

まあ、ぐーぜん、グーゼン、偶然。たまたま台風の目だったんでしょう・・・。はい、かもしれませんが、大切な点は私たちは祈った、すると真夏の海で泳いだ、真っ赤に日焼けして、夏のいい思い出を作ることができたということ。もちろん神に感謝。偶然なる単語は実に便利。生命も偶然、人生も偶然の積み重ね。すべてはぐーぜん、グーゼン、偶然とやっていれば自己責任を問われませんからね。

かくして無事に山を下りて箱根のベネチアンガラス美術館にふらりと。雰囲気はなぜか河口湖のオルゴール美術館とそっくり。キラキラとガラスが輝き、仮装服を着た人々が大勢いるちょっと怪しげな雰囲気の中でガラス工芸品を鑑賞。庭にてマツコ・デラックス氏が絶賛したとかのスフォリアラッテなるケーキを味見。面白い触感と初めて知る味が印象的な食べ物。これはクセになるかも・・・(左の物体)。

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かくして春の箱根の温泉を堪能してまいりました。しかし、花粉症が消えたおかげで、この時期も楽しめるのはありがたいことだ。あ、なに、ぐーぜん、グーゼン、偶然ですよ!Glory be to God!

 

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