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Category: 信仰

TODAY'S CELEBRATION 【Mar 06, 2016】

UPしました。

-Kingdom Fellowship Podcast

タイトルキリストのマインドのアクティベーション

聖書個所:1コリント2:12-16;ヨブ42:2-6など

3月13日のセレブ

 ・場所:エスカル会館2F会議室
 ・時間:1300-1700

WebKingdom Fellowship

YouTubeDr.Luke's KF_Channel

セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。

全国有名書店で発売中

 
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イエスの誕生と死、そして復活が意味するものは何か?最初の人類アダムとエバの“失楽園”、ノアの箱舟、モーセによるエジプト脱出・・・数々の映画のテーマにもなる聖書の奇跡とイエスの生涯に新しい光をあてる。それらは現代人のわれわれとどんな関係があるのか?神は今もなお生きて働かれるのか?それを経験する鍵は?人類のロングセラー「聖書」の世界をよりあざやかにリアルなものとする挑戦的な書。

●11月に一般の100書店に配本され、2月に別の100書店に配本されます(⇒書店リスト)。また紀伊国屋では1年間常備されます。書店に直接注文していただけますと在庫を増やしてくれますので、よろしくです。こちらの注文表をお持ちください。なお、出版社の在庫があとわずかとなった模様です。

●面白い口コミがありました:聖書は既読ですが、モーゼが杖をついたら海が二つに割れたり、イエスが一つのパンで何百人の人を養ったりと、神話的な話として読んでいました。この本を読んでからは、神話や伝説ではなく、リアリティとして感じられるようになりました。
●読書メーター感想:読んでも意味がわからなかった聖書がなんとなくわかった。聖書の読み方が変わった。

異言で祈る時の大脳の状態

異言は霊が言語野を通さずに、霊が直接祈る現象。これが大脳科学的にも証明された。

-Speaking in Tongues Medical Study proves Holy Spirit praying

言語で祈ることができないような場合でも、異言は自由に祈りを解放する。主観的には実に自由に祈れるのだ。

もしわたしが異言をもって祈るなら、わたしの霊は祈るが、知性は実を結ばないからである。すると、どうしたらよいのか。わたしは霊で祈ると共に、知性でも祈ろう。霊でさんびを歌うと共に、知性でも歌おう。-1Cor 14:14-15

 

アリの一穴ダムをも崩す―恐れを駆逐せよ!

恐れるな!これは主イエスが何度も何度も繰り返した言葉。いや、命令だ。しかし、人は誰も弱い者。ちょっとくらい恐れを感じてもそれが普通。・・・と、私たちの生まれながらのマインドはサブコンシャスのレベルで思考している。これはアリの一穴。それがダムをも崩壊するのだ。

恐れるな!これは主イエスの命令である。フェイスと恐れは互いに背反。フェイスのあるところには愛があるゆえに、恐れはない。恐れがあるところには懲罰が伴うゆえに愛はなく、ゆえにフェイスもない。カギは

まことの愛は恐れを取り除く。-1John 4:18

大切なのは愛を通して働くフェイスである。-Gal 5:6

ヨブは自分の恐れているが現実化したと証言した。ニューエイジ的には「引き寄せの法則」。恐れ、FEARとはFalse Expectation Appearing Realだ。恐れは懲罰、つまり呪いとわれわれを結びつける。フェイスは逆に祝福とわれわれを結びつける。恐れはサタンのパワーをアクティブ化する。フェイスは神のパワーをアクティブ化する。

メッセでも語っているが、カナンの地にいた原住民を駆逐すること。なかでもヘテ人、その意味は恐れ。彼らには1ミリたりともゆずってはならない。いつもの再建主義の富井氏がちょうど同じ論点を指摘しているので、引用させてもらおう:

tomi 2016/02/29(月) 21:41

カナン人との闘いにおいて必要なもの

(民数記13・25-33、14・1-11)

出エジプトの後に、イスラエルは、カナン人の土地に入ろうとしていた。
ヨシュアとカレブ、その他のスパイを送り込んで偵察させた。
ヨシュアとカレブは、行って攻めとろうと言ったが、他のスパイはできないと言って民の気をくじいた。
ヨシュアとカレブが可能性を信じたのは、主の約束だった。

その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。

恐れてはならない理由は次のとおり:

1.彼らは私たちのえじきとなる
2.彼らの守りは、彼らから取り去られている
3.主が私たちとともにおられる

主の民であるわれわれは、この3つを信じなければならない。

つまり、

1.カナン人はわれわれの餌食になること。

餌食の原語lechemは「パン」の意味である。
われわれは、カナン人をパンとして食することができる。
つまり、カナン人はわれわれの利益となる。
カナン人が集めた富や財産をわれわれは相続できる。
カナン人・フェニキア人の子孫、ベネチア・オリガルキーを祖先として持つロスチャイルドやロックフェラーが築き上げた世界資産をことごとくわれわれは相続できる。
このことを信じなければならない。
われわれは相手を「食ってやろう」ぐらいの気持ちでなければならない。

2.彼らの守りは、彼らから取り去られている

イエスは「天地におけるいっさいの権威がわたしに与えられた」と言われた。
イエス・キリストの前に、あらゆる人も組織も「無防備」である。
彼らには守りがない。
彼らは武装解除されている。

神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。(コロサイ2・15)

「すべての支配と権威」は「武装を解除」されている。
キリストの御前で、万物は「丸腰」である。
そして、こちらには「御言葉」というあらゆるものを刺し貫く武器がある。

救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。(エペ6・17)

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(ヘブル4・12)

また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。
この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。
残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。(黙示録1・16、2・16、19・15, 21)

神の言葉は、万能兵器である。
何ものも御言葉には勝てない。
聖書は議論の対象ではなく、議論の対象となるものを調理するための器具である。
レストランで、ナイフを食べる人がいるだろうか。
聖書を皿の上にのせて食べようとしても無理である。
聖書は、料理を切り裂くための道具である。
聖書よりも固いものがない以上、聖書によって切れないものは何一つない。

3.主が私たちとともにおられる

神が味方であれば、誰が負けるだろうか。
カナン人との闘いにおいて、創造者が味方である。
だから、確実に勝てる。
創造者以上の権威は存在しないのであるから、必ず勝てる。
このような信仰がないと、クリスチャンになってもグラグラして、悪霊にやられてしまう。
ヨシュアとカレブのように「疑わない」という習慣をつけ、一点のほころびもない信仰を身に着けよう。

キリストのマインドをアクティブ化する

私が何度も何度も「声を出すこと」を強調している理由、それは自分の澱んだマインドから出るためなのだ。人は無意識のうちに自分の魂、特にマインドの習性に従って、その世界に埋没している。セレブでもそうなのだ。体はそこにいてもマインドがセレブの雰囲気にチューニングされていない。

イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』-Matt 13:14-15

これはわれわれにもそのまま適用される。変化しない人は、要するにマインドにベールがかかっているために物理的には御言葉を聞いているが、心では聞いていないのだ。それは

彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。-2Cor 4:4

これはクリスチャンでも言えること。物理的に聞くことと、心、もっと言えば霊で聞くことはまったく異なる。マインドが鈍くなっているため、御言葉が通らない。こういった人はしばしば知的には優れており、知識はたくさんもっているが、霊的にはなかなか頑固であり、容易に変化しない。

我々の神、主はホレブで仰せになった。「あなたたちは既に久しくこの山にとどまっている。向きを変えて出発し・・・-Deut 1:6-7

私が「アーメン」などの応答を求めるのは、このマインドのベールを引き裂くためである。マインドの中にぬくぬくと埋没していることはそこそこ気持ちいいこと。しばしば人は心ここにあらず、フェイスはナウ経験であると何度も指摘しているが、マインドが鈍い人はピンと来ない。したがって、ここで、神が備えてくださったことを受信することできないし、喜びも味わえない。彼らにとっては単なる教義であり、教えに過ぎないのだ。サブスタンスとして、それが彼らの内的リアリティーとならない。人は真理に触れるならば、その人から醸されるオーラが変化する。不思議なもので、この霊的オーラはすぐに分かってしまう。生活の思い煩いとか、体の心配とか、アレコレに囚われている人はモヤモヤとして、スカッとしたオーラを発散していない。何か籠っているのだ。

それを引き裂くためにセレブにおいて立って、手を挙げて、声を張り上げて、主を賛美する。これが必要なのだ。座ったまま、受け身で、なんとなく時間をやり過ごす傍観者は自分がいかに損失を被っているかに気が付くべきであろう。マインドが主にフォーカスされないままワーシップの時間を過ごすことはけっこうつらいと思うのだ。自分を否むことはここから始まる。自分を大事大事している人ははっきりというが、セレブに来ても意味がない。なぜ?霊的な共鳴も、バイブレーションの共有もないからだ。これがあって初めて互いの霊が結びつき、ワーシップが甘く、潤いのある豊かなものとされる。

こうして自分のマインドから出ること。それはキリストのマインドをアクティブにすること。御言葉はおのずと開けて、そのような人は自然と人手によらず、つまりオーガニックに成長する。私のメッセを聞いてメモしても何の意味もない。そこに流れている霊のバイブレーションを受け、それを共有することが必要なのだ。教会って訳、これで飼い慣らされると、教えてもらう会になるだけ。自分から関わること、つまり当事者として霊の流れに参加することできなくなる。これが干からびたキリスト教の儀式となる。セレブがそんなものになるのであれば、やめたほうがいい。一人ひとりが自分を裂き、当事者として、セレブを作っていく姿勢を見せること。神のわざはその時にこそなされるのだ。

 

サウジの35万人規模軍事演習の意味-ダニエル書から

TODAY'S CELEBRATION 【Feb 28, 2016】

UPしました。

-Kingdom Fellowship Podcast

タイトル神を語り出せ

聖書個所:ヨハネ1:1-4;イザヤ55:11など

3月6日のセレブ

 ・場所:エスカル会館2F会議室
 ・時間:1300-1700

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セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。

全国有名書店で発売中

 
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イエスの誕生と死、そして復活が意味するものは何か?最初の人類アダムとエバの“失楽園”、ノアの箱舟、モーセによるエジプト脱出・・・数々の映画のテーマにもなる聖書の奇跡とイエスの生涯に新しい光をあてる。それらは現代人のわれわれとどんな関係があるのか?神は今もなお生きて働かれるのか?それを経験する鍵は?人類のロングセラー「聖書」の世界をよりあざやかにリアルなものとする挑戦的な書。

●11月に一般の100書店に配本され、2月に別の100書店に配本されます(⇒書店リスト)。また紀伊国屋では1年間常備されます。書店に直接注文していただけますと在庫を増やしてくれますので、よろしくです。こちらの注文表をお持ちください。なお、出版社の在庫があとわずかとなった模様です。

●面白い口コミがありました:聖書は既読ですが、モーゼが杖をついたら海が二つに割れたり、イエスが一つのパンで何百人の人を養ったりと、神話的な話として読んでいました。この本を読んでからは、神話や伝説ではなく、リアリティとして感じられるようになりました。
●読書メーター感想:読んでも意味がわからなかった聖書がなんとなくわかった。聖書の読み方が変わった。

Dr.Lukeの特別セミナー:『神属人類の誕生』

GOD LIKE HUMAN BEING

  • 上のPodcastロゴをiTunesにドラッグするとライブが自動でダウンロードされます。スマホでクリックしますとPodcastアプリに登録されます。

昨日、小田原のマラナタ・キリスト教会に招かれて、セミナーを行った。ここのリーダーは先に末期がんが癒されたご婦人。アパートを借りてホームレスの方や障害を持つ人々と畑を耕作して生活されている。聞くところによると4,5年前に胸にしこりを発見するも、1年以上放置。腫瘍が崩れて血膿が出るほどになってようやく癌センターを受診。が、すでにオペは不可能で、この2年ほど抗がん剤で叩いていたが、副作用で体重減少、髪も抜けてガイコツのようになっていたそうだ。

そんな状態の中で彼女は、このまま生きても主とお会いするときに申し訳ないと感じ、自分の命はもう捨ててもよいと決意、抗がん剤を主治医と相談の上やめた。そして昨年、15年ぶりに再会できたのだ。私がイエスの名でがん細胞を呪うと、ただちに汚れて腐った油でギドギドの布がばっさと落ちて(幻)、癒されたことが分かったと。数カ月後癌センターで検査したところ、「所見なし」との診断であった(以上の経緯は過去ログを参照のこと)。

その後、彼女の回復を見た家族の方や、教会のメンバーもリバイバルし、主にあって御霊によって燃えるようになったとのこと。確かに集会の雰囲気は生き生きとして活発。子供のようにアーメン、ハレルヤの声が上がって、実に爽快かつ楽しいものであった。神の国を経験するためには子供のような単純さがカギ。御言葉や賛美に対して斜に構えるような人がひとりでもいると場のアトモスフィア、雰囲気が壊れるのだ。はっきり言うが、理知的な人はこの点、神の国に敵対することが多い(Rom 8:7)。本人は多分に気が付いていないのだが。

セミナーの後、山の上にある畑を見せていただき、無農薬の野菜をたっぷりいただいた。そう、オーガニック。人の手が入っていない。化学薬品もない、有機栽培のものだ。エクレシアも同じだ。人の何かが混入すると汚染されるのだ。神の畑もオーガニックなままにしておくべきなのだ。

また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土は人手によらずに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」-Mark 4:26-29

アメリカ産やカンコク産のアレコレの教え本やマニュアルが蔓延るニッポンキリスト教。オーガニックに戻ることができる者は幸いである。

神を語り出す

はじめに言があった。言は神とともにあった。言は神であった。-John 1:1-2

この言はロゴス。神を表現する存在、もちろん御子である。ヘブル書では神のサブスタンスの現出と言われる(Heb 1:3)。見えない霊なる神たる存在をこの物理的時空間において肉体をとおして表現された。肉体は完全なる人。しかしそのサブスタンスは神。が、このお方はあくまでも人として生きられた。人であるから聖霊を注がれ、神が共におられたので、あれだけのわざを成し得た(Acts 10:38)。

神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。-Acts 2:22

イエスとは御子が地上に人としているときの名前である。神は人を通してご自身を証される。

神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。この敬虔の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、神は肉において現れ、"霊"において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。-1Tim 3:15-16

ここはよく、「キリストは肉において現れ」とあるがTRでは「神は」である。「敬虔の秘められた真理」とは奥義であり。Vincentはこう指摘する:

The mystery of godliness is the substance of piety = mystery of the faith (1Ti 3:9).

すなわち、神のサブスタンスがフェイスの法則によって肉において現出することである。これはキリストが初穂として模範を示された。エクレシアの原則もまったく同じ。われわれの肉を通して神は現れる。フェイスはいわゆる日本語で言うところの信心とか信仰とは違う。それは神が創造のわざをなさるときに用いられたパワー、そのフェイスを語り出すことによって万物が存在するに至った。マルコ11章22節を「神に対する信仰を持て」と訳する傾向があるが、これは神のフェイス。ガラテヤ2章20節も「御子を信じる信仰」とされているが、御子のフェイス。つまりそれぞれ

神のフェイスを持て。-Mark 11:22

生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子のフェイスによるものです。-Gal 2:20

ゆえに

義人はフェイスによって生きる。-Rom 1:17

普通、人は目によって生きている。視覚から得られる情報に基づいて物事を判断し、意思決定し、行動を起こす。教習所で言われる、認知→判断→行動というパタンだ。つまり視覚はひとつのパワーであり、大脳は自動的に世界の映像を構成する。いつも言うが、色はもともと存在しない。存在するのは電磁波なる物理的サブスタンス。そのある波長の領域のみを目が知覚し、視覚野に色が生まれる。これをクオリアと言うわけだ。われわれが内的に構成している世界の像はほんのわずかな物理的サブスタンスを用いているに過ぎない。

霊から生まれた私たちはこのような肉体に備わる五感の他に、霊によるフェイスを第六感として獲得した。このフェイスは物理的時空間を超えて機能する。だから二千前のイエスの死と復活にわれわれも与れるのだ。これ自体がスーパーナチュラルであろう。はっきり言うが、スーパーナチュラルを認めない者はフェイスを知らないことを自ら証明しているのだ。聖書を五感で読んで、ある者は文学的に、ある者は道徳的に、ある者は人生論的に、ある者は歴史書的に、オツムによって理解しているに過ぎない。それはフェイスではない!

イエスは神の国を地上にもたらした。神の国を現すためには何が必要であるか?語ること!

「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。-2Cor 4:18

語ることは神の言を解放すること。もちろん自分の主義思想などではない。神の言だ。イエスはうちなる父の言を語り出した。すると死者が生き返り、らい病が癒され、聾唖が語り出し、足萎えが歩いた。神の言を語り出すとき、その人の周りにはオーラが生まれる。それは霊のバイブレーションであり、そのオーラに包まれているならば、つねに神の国を運ぶことになる。人はそれぞれオーラを醸している。自分の問題や体調に拘束されている人は固く、冷たい雰囲気を醸す。暗い考えや希望のない思いに囚われた人はどんよりとぼんやりして、暗い雰囲気に包まれている。オツムで何でも処理しようとする人は神の国に参加するのではなく、傍観者的に見ているだけだ。自分が当事者であることを知らない。

セレブレーションでも真に霊が温められて、霊を解放している人は温かく、満ち足りたオーラを醸し出す。自分だけが恵まれたいと切望する人はかえって満たされない。なぜ?自分を捨てないからだ(Luke 9:22-23)。あくまでもすべての基準は自分の考えであったり、感情であったり、体の状態であったり、つねに自分が物差しとなっている。そのようなセルフのカプセルに閉じこもる人は神の霊をも排除してしまっている。だから神のわざを受けられないし、したがって変化しない。

声を上げることを私は強調しているが、声と霊は密接に関係している。たとえばあなたが旦那や子供をしかりつける時を考えてみてほしい。「あんたぁ!なにしてんのよぉ!!!」と心の底から怒りをぶつけるとき、あなたは怒りの霊を解き放っている。セレブではおとなしく、とても恥ずかしくて声を出せませんとか言いつつ、借りてきた猫のような状態であっても、家族に対しては自由に霊をぶつけているのだ!わかります、要点が?人は心にあることを口が語る。家族の中では無防備に何気におれるゆえに霊を自由に発散しているのだ。しばしばそれは神の霊ではないのであるが・・・。

だから、逆を考えてみればよい。私たちはキリストのマインドを持っている(1Cor 2:16)。そのマインドを発散するのだ。それが神の霊を解き放つこと。それは父なる神の言であるから、イエスがなされたと同じわざを成す。私たちが何かをするのではない。私たちの口を通して解き放されたれた父の言がわざをなすのだ。

そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。-Isa 55:11

私たちが神のロゴスを語り出すならば、それは神を語り出すことだ。なぜ?ロゴスは神だから!イエスがなされたことと同じ原則、メカニズムが働くのだ。ゆえにイエスは言われた

はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。-John 14:12

神を語り出すこと。これが「御心が天になるとおり、地にもなるように」の実際である。神はあなたの口を支配したいのだ。そのためにあなたが自分のメンツや恥ずかしさやためらいなどを破り捨て、声を上げる瞬間を待ち望まれている。あなたが神のわざを得られないのは、はっきりという、自分を裂いていないないからだ。自分を安全な場所に置いたまま、「イエス様、憐れんでください、癒してください」といったところでそれは働かない。イエスは盲人に歩いてシロアムの池に行けと言われたのだ。あなたはそのリスクを負うか?と主は問うておられる。すべてはあなたの応答次第なのだ!

サン・オブ・ゴッド

今晩WOWOWで放映されたが、欧米ではいろいろと批判を受けているこの作品、ニューエイジのキリストだとか、イエスがイケメンすぎるとか・・・。まあ、このような声があることは承知の上であえて言えば、素直に受け止めればみ言葉を語っている。ただ時系列が前後する部分はあることは事実だが。ニューエイジとクリスチャンのフェイスの相違はきわめて微妙であるが、カギは十字架を経ているかどうか。死と復活を経て、われわれは新しい創造とされた。この作品はそのことを押さえていると感じたが、なにか?

 

イザヤ17章の成就

シリア「国家として崩壊寸前」~国連調査委

 日本テレビ系(NNN) 2月23日(火)16時55分配信

 内戦が続くシリア情勢をめぐり、アメリカとロシアが今月27日から戦闘を停止するよう、当事者らに呼びかけることで合意した。

 合意では、シリア時間の27日午前0時から戦闘を停止するよう、アサド政権側と反体制派に呼びかけている。内戦の外交的解決を目指す国連安保理決議の順守などの条件を提示し、26日正午までに呼びかけに応じるよう求めている。

 合意を受けアメリカのオバマ大統領はロシアのプーチン大統領と電話で会談し、「すべての当事者が合意を忠実に履行することが最優先だ」との認識を示した。

 プーチン大統領も異例のテレビ演説を行い、停戦の実現に向けて、「アサド政権側と必要な作業を行う」と強調した。過激派組織「イスラム国」によるテロも激しくなる中、アメリカとロシアは「イスラム国」を停戦の対象に含めず、今後も空爆を続ける構え。

 こうした中、国連の調査委員会がシリアに関する最新の報告書を公表した。アサド政権や「イスラム国」などによる人権侵害が続いていることなどを挙げ「国家として崩壊寸前だ」と指摘した。

 停戦を経て暫定政権の樹立を目指す、などとした去年12月の安保理決議についても「実行されておらず、ほとんど意味がない」としている。

2003年のバイブルカレッジにてこれから注目すべき預言はイザヤ17章(Isa 17:1-2)のダマスコの運命であると指摘した。15年を経て、われわれはその預言の成就を目撃しているのかもしれない・・・。

われわれはエイリアンである

わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。-John 17:14

今回のメッセで指摘した。われわれはエイリアンである、と。われわれはエクレシア、それはニュー・クリーチャー、新生命体。宗教団体などではない!生きている有機体、新しい被造物だ。そしてイエスが世のものではないのと同じ程度においてわれわれも世のものではない。イエスは神のサブスタンスの肉体としての現出(Heb 1:3)。もともと彼は神のロゴス、言葉、それが肉体化された存在(John 1:1;1:14)。つまりこの世のものではない!われわれも彼とまったく同じ、すなわちエイリアンだ。Are you with me? われわれはキリスト教なる宗教を信じているわけではない。われわれはまったくブランド・ニューな生命体なのだ。

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