天のしるしが9回起こった
ちょっと貼っておきましょう。2003年のバイブルカレッジ講義にて、イザヤ17:1(Isa 17:1-2)が終末のメルクマールになると語ったが、それはすでに成就したと見てよいだろう。ついでに19章(Isa 19:1-3)のエジプトへの預言もだ。
神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。-Gen 1:14-15
Dr.Luke的日々のココロ
Category: 信仰
ちょっと貼っておきましょう。2003年のバイブルカレッジ講義にて、イザヤ17:1(Isa 17:1-2)が終末のメルクマールになると語ったが、それはすでに成就したと見てよいだろう。ついでに19章(Isa 19:1-3)のエジプトへの預言もだ。
神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。-Gen 1:14-15
いつもの再建主義の富井氏の論、これはクリップしておこう―
tomi 2016/09/22(木) 20:16
It teaches that the total complex of end time events transpired in the first-century: the Second Advent, the resurrection, the rapture of the saints, and the great judgment.
携挙は紀元1世紀に起きた
ハイパープレテリズム(フルプレテリズム)の批判において、ケネス・ジェントリーは、「携挙は未来に起きるとする教え」を正統派の教えに含めているが、はたしてそうだろうか。
「それ(ハイパープレテリズム)は、終末の出来事の全体―つまり、再臨、復活、聖徒の携挙、最後の審判―が第1世紀に起きたと教える。」
https://postmillennialismtoday.com/2014/02/26/hyperpreterisms-empty-proof-text/ パウロは携挙は自分の生存中に起きると述べている。 「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。 … 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(1テサロニケ4・15, 17)この「主が再び来られるときまで生き残っている私たち」(15節)は原語で、 hemeis hoi zontes hoi perileipomenoi eis ten parousian tou kyriou であり、意味は、 we the living (the) remaining into the coming of the Lord
「主の来臨まで残っている生者であるわれわれ」である。 eisという前置詞は本来「中へ(into)」という意味も有し、「主の来臨の時が来るまで『十分に』」というニュアンスを表現する。 つまり「来臨のときにもまだ生きている」ことを強調している。 17節「雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会う」のは、「生き残っている私たち」(これも15節と同じhemeis hoi zontes hoi perileipomenoi)である。 つまり、携挙されるのは、パウロの同時代の人々。 だから、携挙はすでに紀元1世紀に起きたと考えるべきである。
このニュースは興味深い。MicrosoftがガンのDNAのコードを解読して、ガンを10年以内に征服するとか。
-Microsoft will 'solve' cancer within 10 years by 'reprogramming' diseased cells
フェイスによって、わたしたちは、この世界が神の言葉(レーマ)によってフレーム化され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。-Heb 11:3
レーマとは語り出された言葉、つまり神の霊のバイブレーション。詩編にはこうある:
昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく声は聞こえなくても
その響きは全地にその言葉は世界の果てに向かう。-Ps 19:3-5
響きとは弦、つまり振動、バイブレーション。言葉はミレア、語り出された言葉、つまりバイブレーション。五感では感知できずとも、何か(霊的サブスタンス)を語り伝え、知識を交換している。これが霊的領域の有様、リアリティーだ。すべて神の言葉によって生じ、かつ保たれている。私たちの霊はそれを受信する。
御子は、神の栄光の反映であり、神の本質(サブスタンス)の完全な現れであって、万物を御自分の力(デゥナミス)ある言葉(レーマ)によって支えておられます-Heb 1:3
最近ではVRの世界が発展し、リアルとの区別ができなくなっている。そもそも大脳にとってはリアルも妄想も区別はできないのだ。そのVRはプログラムの体系。つまり言葉によって構築されている。もちろん人間の。対して、世界は、生命現象も含めて神の語り出された言葉によって構成されているのだ。それはつまり、言語マトリックス(ロゴス)のバイブレーション。
ガンも現れた現象(腫瘍)を切った張ったの時代ではなくなるのだ。コードを解読し、コードを操作すること。私たちのフェイスも同じ。目の前に現れた現象をいじるのではなく、霊的領域のサブスタンス、つまり霊の世界のコードを操作するのだ。これが祈りである。それは宗教行為ではなく、霊的サイエンスのテクニック、あるいはエンジニアリングである。そう、スピリチュアル・エンジニアリング!まことにこの世はマトリックス。私たちが生きる領域はそれを超えた領域、スーパーナチュラルな世界。すでにキリストと共に天の座に座しているのだから!
かくしてすべての事柄をキリストのマインドで認識し、評価し、決断する。私たちはすでにキリストのマインドを持っている!
彼についてはその主張がまともになってきたことをすでに指摘している。
こちらも参考に:「霊の戦い」系の方々に一言
で、彼は2015年に何らかの決定的な経験をしたらしい。ちょっと距離感を保ちつつ見ているエターナルライフからのメールマガジンに紹介があったのでのぞいてみた。
私自身も2014年12月にまったく考えてみなかった経験をしているので、最近ではこのような証を真っ向から拒絶することはできないのだ。この最後にある、ただひとつ必要なことは、もちろんフェイスである(Heb 11:1-6)。
今週のメッセでも聖霊については御言葉から解いているが、いわゆる「聖霊様、聖霊様」にはややキムチ臭を感じてきたことはすでに何度も書いている。私たちが呼び求めるべき名は「ジーザス」のみ(参考:ニッポンキリスト教の七不思議)。もっと正確に言えば、イエシュア・ハ・メシアである。その意味は「神は救い」。私たちを救い得る名はこの方の名のみである(Acts 4:12)。
このクリップは実に興味深い。私は911以前から、現代のわれわれは壮大なフェイクを見せられていると指摘してるが、真理は御言葉にある。今、われわれはソレを目撃しつつあるのかもしれない。
釈意:官位を離れて閑散たる生活に入ってからというもの、何事においても心はゆったりとしている。ぐっすりした深い眠りから目覚めれば、すでに朝日が東の窓に赤々と差し込んでいる。周囲の事物を静かに眺めると、各々、はまりどころ得てしっくりと収まっている。四季の織り成す心地よい趣は、人と渾然一体となり移り変わっていく。私の信じる道は天地の間にあって浸透し、その無形の思いは風に流れる有形の雲にまで入り込む気分になる。たとえ富んだ者になっても富に耽溺せず、貧しく低い身分でも生きることを楽しめる。男子たる者、このような境地にいたるならば、真の豪雄である。
主はこう仰せられる。「もしわたしが昼と夜とに契約を結ばず、天と地との諸法則をわたしが定めなかったのなら・・・」-Jer 33:25
神の法則、理に則って生きること、これが安楽な道。逆らわず、もがかず、身も心も任せること。それは即ち、いのちの御霊の法則だ。五感の領域を脱皮すること、スーパナチュラルに生きることでもある。
真に神に任せるならば安楽である。-ブラザー・ローレンス
昨日のメッセにて紹介したコレ、シナジー効果。英語ではSynergy Effect。Wikiにはこうある:
相乗効果(そうじょうこうか、シナジー、英: synergy)とは、ある要素が他の要素と合わさる事によって単体で得られる以上の結果を上げること。反義語は相殺、中和。相乗効果により、全体の最適化、効率化が発揮される。自然、経済、社会、など様々な分野で、この効果は測される。
まあ、ニッポンキリスト教の神学や説教ではまず聞かれない単語であろう。最近、Dr.Lukeはやたらと「バイブレーション」とか「ポータル」とか「チューニング」とか、ニューエイジ系の単語を連発していると言われる向きもあろうが、それは彼らが聖書を知らないだけ。すべて聖書の中にある単語である。
で、このシナジー効果なる御言葉はどこにあるのか。
なぜならば、わたしたちは〔まさに〕神の同労者であり、あなたがたは〔まさに〕神の畑、神の建物なのだからである。-1Cor 3:9(岩波訳)
この同労者と訳された原語は"sunergos"、つまり"sun"(union,with,together)+"ergon"(energy,work)だ。エネルギーを共有して行動すること。ポイントはこうだ。アレコレのいわゆる奉仕活動に没頭するキリスト教界の常識に反して、私たちは何もしないこと。これがカギ。ジーザス自身が言われた:
はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。-John 5:19
「できる・できない」を示すギリシャ語は"dunamai"、それは"dunamis"、つまりパワーがないということ。ジーザスは自分では何もできなかったのだ。が、彼は全能のわざを行った。われわれは結構自分でいろいろとできてしまう。が、死者を生かすことはまだしたことがない。カギは何か。エネルギーの問題である。
あのニッポンキリスト教でよく聞かれる「自我を否みぃ~!」がまったくの嘘である事を10年以上前から指摘しているが、われわれの魂の機能(思い・感情・意志)の機能停止することと勘違いしている人がかなりいる。自己の死とかも同じように無感覚や無活動と思い違いをしているのだ。十字架は自己の死を実体化するが、それはエネルギーの源泉の切り替えである。ナチュラルな魂や体のパワーによる活動ではなく、スーパーナチュラルな神の霊のパワーによって生きること。これが十字架の本質(⇒自己における死について)。煙をもうもうと吐き出す10馬力のジーゼルエンジンによらず、1,000馬力のクリーンな水素ガスエンジンに切り替えることなのだ。つまりナチュラルからスーパーナチュラルへの転換、これが十字架。倫理や道徳や宗教のオハナシではまったくない。
私たちはすでにスーパーナチュラルな誕生によりニュークリーチャーとされ、スーパーヒューマンにしてネオ・ホモサピエンスである。が、この大脳と同期する魂がこれまでの生き方のパターン、つまりマトリックスを捨てきれないのだ。これでカウンセリングや精神科や臨床心理などの罠に陥るのだ(⇒信仰と精神分析について)。ゆえに依然として10馬力ジーゼルで生きようとして、周りに煙害と悪臭をまき散らす。これは「肉(flesh)の慣性」による(⇒肉について)。ちょっと待て、車は急に止まれない、というわけ。かくしてここを切り分けるのが十字架なのだ(⇒自己を否むことについておよび死と復活の原則について)。それはすべてフェイスによる。フェイスはその霊的サブスタンスを実体化するのだ(Heb 11:1)。
カギがお分かりでしょうか。それはエネルギーの問題、私たちは神のデゥナミスによって生きる。私たちはすでにキリストのマインドを持っているゆえに、それがアクティベーションされてナチュラルなマインドがスーパーナチュラルなマインドに座を譲るとき、キリストのマインド、感情、そして意志決定が私たちの魂(soul)において再現する。つまりキリストが私たちの魂と体を通して生きるのだ。これがエペソ5:1(Eph 5:1)にある神をエミュレーションすること。そもそもジーザスは父をエミュレーションしたのだから。かくしてパウロは言っている、生きるとはキリストだ、と(Phil 1:21、新共同訳)。これを「キリストのために生きる」とか宗教的に勝手に解釈しないように。To Live is Christ! 聖書は生命現象の書なのだから。
私たちが父・子・聖霊の三位にいます神、YHWH=The most high Elohimのエネルギー(Dunamis)にチューニング(共鳴)し、そのインパーテーション(分与)を受ける時、Elohim属とされた新しい人類である私たちの魂と体において、神の霊とのシナジー効果が起きる。このとき、何かが起きるのだ!WOW!!! 神はその生命現象に参加せよ、と私たちを招いておられる。「きよく・まずしく・ただしく・・・」といった宗教の霊から解かれよ!キリストは私たちを自由へと召し出してくださったのだから!パウロは言う―
あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。-Phil 2:13
あなたのその願いを祈りと賛美と感謝によって大切に育てること(注)。それは神のエネルギーを注入されて健やかに育ち、豊かな実を結ぶのだ。これこそ霊のシナジー効果である。
(注)神の意志と一致しない自分勝手な願いは、祈り続けることはできないし、そのうちに白けてしまう。あれ、自分、なんであんなことを求めていたのだろうか?と。が、何であれ願いを感じたらとにかく感謝を捧げる祈りによって神に知っていただくこと(Phil 4:6)。自分でこれは肉か霊かとかジャッジする必要は全くないのだ。
●MSGタイトル:神のシナジー効果
⇒メッセージで触れた「ハードコアプロファイルズ」。HuMatrixはこちら。
●聖書個所:ヨハネ16:13-15;1コリント3:9;ローマ8:26-27など
●9月25日のセレブ:
・場所:エスカル会館2F会議室
・時間:1300-1700
●Web:Kingdom Fellowship®
●YouTube:Dr.Luke's Kingdom Fellowship Channel(セレブ全体)
●ApplePodcast:Kingdom Fellowship Celebration
●セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。あるいはメールにもOKです。
全国有名書店で発売中
イエスの誕生と死、そして復活が意味するものは何か?最初の人類アダムとエバの“失楽園”、ノアの箱舟、モーセによるエジプト脱出・・・数々の映画のテーマにもなる聖書の奇跡とイエスの生涯に新しい光をあてる。それらは現代人のわれわれとどんな関係があるのか?神は今もなお生きて働かれるのか?それを経験する鍵は?人類のロングセラー「聖書」の世界をよりあざやかにリアルなものとする挑戦的な書。
●面白い口コミがありました:聖書は既読ですが、モーゼが杖をついたら海が二つに割れたり、イエスが一つのパンで何百人の人を養ったりと、神話的な話として読んでいました。この本を読んでからは、神話や伝説ではなく、リアリティとして感じられるようになりました。
●Amazonにて:Dr.ルーク先生には、勇気や元気を貰えます! お話を聞いたり、ご本を読むうちに「キリストの本質」が学べます。何年教会へ通っても理解出来なかったことが、数か月で分かる感じがしました。キリストは死んだ「宗教」ではない、フェイスそのものです。人生観が変わります。
●メールにて:一気に読んだ。読みやすくて、時間を忘れて読んで、まったく抵抗なく、すぅ~~~~っと入ってくる内容だ。
あなたがたはこの世と同じ姿かたちにさせられてはならない。むしろ〔自らの〕思いを刷新することによって形造り直され、〔その結果〕何が神の意思であり、善きことであれ、そして〔神に〕喜ばれることであり、完全なことであるのかを、あなたがたは吟味するように〔しなさい〕。-Rom 12:2(岩波訳)
自分の生き方や信条や個性や感じ方などをあくまでも主張する人々がいる。オレはオレ、私は私であることが大切だと・・・。彼らを見ているとひたすら種々の活動や主張に次から次へと没頭し、それはある種強迫的ですらある。それに没頭していないと自分のアイデンティティーが保たれないかのように・・・。一言で言えば、霊的に空疎なのだ。
私たちは絶えず自分の十字架を負う必要がある。それはまずマインドを絶えず変えること。昨日のおじいちゃんのように、現ナマのマトリックスに絡め取られていると電子マネーが使えない。理解もできない。これが自分を自分のマトリックスに幽閉する人々のあり方だ。自ら捨てない者は決して霊的富を得ることはない。そしてその空疎さは周りにはわかってしまう。霊のあり方は決してごまかせないのだ。彼らは活動することによってその空疎を補償しようとするのだが、かえってそれが空疎さを証明していまう。
神のバイブレーションと共振すること(Ps 19:1-3)。これは神の声を聞くことであるが、魂(Soul)―特にナチュラルなマインドが邪魔をする。いわんや、自分を主張すればするほど、神との距離が離れる。まことにジーザスの声を聞く者は生きるのだ(John 5:25)。私たちの霊的有用性は、活動ではない、聞くことだ。聞けばフェイスが息吹かれる。それは霊を受けることである。そして語り出すのだ。その語り出された言葉は無意味に返ることはなく、必ず言い送ったことを成し遂げる(Isa 55:11)。それは神の業である。ジーザス自身がそのように生きたのだ。
神に属する者は神の言葉(レーマ)を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。-John 8:47
マルタはジーザスの足元に座るマリアに憤りを覚え、ジーザスに訴えた。が、彼はマリアは大切なことをしているのだと言われた(Luke 10:40-42)。それは―ジーザスの声を聞くこと。聖霊は自分勝手に語るのではなくジーザスの言葉を語るのだ(John 16:13-14)。かくして、私たちの有用性はどれほど聞くことができるかにかかっているのだ。
今年はヨベルの年、またシュミタの年である。ヨベルの年には、奴隷は自由となり、負債は消失し、土地も戻される。つまり「GET BACKの年」。年度頭にそのことをメッセージした。
さて、それぞれにおいてはいかがであろうか?いや、自分はまだ失ったものを取り戻せていない;事態はむしろ悪くなっている;どうやってゲットバックすればよいかもわからない・・・。いわゆる聖霊派でやるような念をこめた祈祷によって、「主の名によって命じる、○○よ戻って来い!」と叫んでもあまり効果はない。なぜか?それは霊的グラウンドを取られているから。目に見える五感の領域におけるアレやコレに戻って来い!と叫ぶのは単なる宗教儀式、いや迷信だ。
霊的なグラウンドを、まず取り戻す必要があるのだ。それは、自分の罪、自分の野心、自分の欲、自分の達成、自分の満足、自分の能力などなどを優先した結果、この世の霊や罪と契約を結んでしまっている領域である。そこからは主が排除されている。要するに主以外のものを置いている領域、二心の領域である。祈っても叶えられないとか、癒されないのは信仰がないとでも言うのか、とか叫ぶ領域である。
メッセでも語ったが、このような発言は恐るべき発言であることに気がついていない。彼らは、神は信仰に応えない方であると主張しているのだから。神を真実とせず、自分の信仰、否、自分の「信仰」を真実として、神をむしろ不真実であるとジャッジしているのだ。神は二心の領域においては決して働かれない。
疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。-James 1:6-8
神は単一な心の者にご自身を現される(Matt 5:8)。ここはしばしば「心が純粋な者は神を見る」と訳されるが、この単語は”kathoros”であり、「単一」と訳するのがベター。つまり、動機や目的において神のみに占有されていること。つねに神と何かを比較して天秤にかけること、これが二心だ。私たちは問答無用に神のみを選ぶのだ。妥協し、言い訳し、弁明し、正当化している領域―それが敵に取られている領域である。まずその領域を取り戻すこと。五感の領域のもろもろの事物や事象やアレコレは、その結果としてゲットバックする。
神によって心を測っていただこう。そのジャッジに服して、悔い改めにより、新鮮な愛の息吹きを受けよう。
2016年、ヨベルの年またフェイスの覚醒の年